東員町文化財について
東員町文化財について
東員町の文化財について紹介します。次の文化財名をクリックしてください。
- 穴太の弁天さん(厳嶋神社)
- 山田城址《城山》
- 鳥取神社《鳥取》
- 道標「雲雀が岡」 《鳥取》
- 鳥取塚 《鳥取》
- ちりん坂の「智伝」の碑 《鳥取》
- 大木城址 《大木》
- 猪名部神社と神事 《北大社》
- 山田廃寺 《山田》
- 鳥取山田神社と狛犬一対 《山田》
- 毘沙門天 《山田》
- 大山繁木顕彰碑 《山田》
- 員弁廃寺の礎石 《山田》
- 大高甲斎の碑 《瀬古泉》
- 穴太山多井寺 《瀬古泉》
- 瀬古泉の白峯龍神 《瀬古泉》
- 薬師如来像 《穴太》
- 穴太徳(中野徳次郎)の墓 《穴太新田》
- 筑紫の地蔵さん 《筑紫》
- 筑紫の大連の碑《筑紫》
- 藤谷万次郎先生之碑 《中上》
- 多奈閇神社 《中上》
- 新野遺跡《中上》
- 西山遺跡《中上》
- 中上城址 《中上》
- 景清松 《長深》
- 瑞応寺と第一世実性(景川和尚)の像 《長深》
- 鳥羽海の墓 《長深(東守)》
- 鳥羽海の墓 《長深(北守)》
- 長深城址《長深》
- 三月堂《長深》
- 船連之碑 《長深》
- 一色正芳の碑 《南大社》
- 村前遺跡 《瀬古泉》
- 山田溜 《山田》
- 白草稲荷神社 《北山田》
- 御厨神明社・六把野獅子舞 《六把野新田》
- 道標「香取道」 《六把野新田》
- 福塚古墳 《六把野新田》
- 六把野道場 《六把野新田》
- 神田小学校跡 《六把野新田》
- 顔なし地蔵 《六把野新田》
- 青木駿河守の碑 《鳥取》
- 八幡神社 《八幡新田》
- 大木神社 《大木》
- 薬師堂・閻魔堂 《北大社》
- 旧郡役所 《南大社》
- 旧東員郵便局 《南大社》
- 念仏橋・念仏小橋 《中上》
- 六把野古井水 《八幡新田》
- 六把野新井水 《鳥取》
- 神田用水 《鳥取》
1.穴太の弁天さん(厳嶋神社) 《穴太》
鎌倉・室町時代には穴太は伊勢神宮領でした。そのため農耕には欠くことのできない水の神様として「市杵島姫命」を安芸国(広島県)の宮島の厳島神社から分社してもらって「弁天山厳島神社」を建ててお守りしてきたと伝えられています。昭和58年5月新しい神殿と石段が完成し、毎年9月8日を弁天祭として例祭を行っています。

2.山田城址 《城山》
中世城館の一つ。笹尾城ともいいます。中心部の規模は東西81m×南北35mです。『員弁雑誌』によると、城主青木駿河守平安豊は天正2年(1574)に織田信長に滅ぼされました。昭和57年城山地区の団地造成に伴い、東員町教育委員会が発掘調査を行いました。調査の結果、数棟の建物跡、戦国時代の日用土器や石硯、中国銭、中国製陶磁器等が出土しました。遺物は、東員町郷土資料館に展示されています。
3.鳥取神社 《鳥取》
延喜式内社で、現在の社格は村社です。天湯河裄命を主神とし、その他七柱の神が祀られています。字長澤は旧名を川中島といいました。長澤川と砂谷川の合流している地点からでた地名であるとされています。明治44年11月8日、神明社ほか七社を合祀して現在に至っています。桑名藩の歴代藩主からも篤い崇敬をうけましたが、特に五代目の松平越中守定綱は神社の近くに別荘を建てたびたび参拝しました。そして長船祐定の銘がある脇差を奉納し(年月は不詳)、現在も神宝として保存されています。以来、桑名藩主は、代がかわるたびに参拝しています。第十四代藩主松平忠堯が忍藩へ国替えになったため、別荘は廃止されました。
4.道標「雲雀が岡」 《鳥取》
鳥取の旧員弁街道で大木道と分れる小高い所に道標がたっています。これは長年、雑草や半ば土に埋もれていたものを、近年地区の人々の手で復元されたもので、文化14年(1817)鳥取の俳人岩田卜斎によって建てられました。碑には「右あげき、はった、左大いづみ、石ぐれ」と刻され、その裏面に「雲いくへ ひばり鳴くなりそりみ坂」の句が記されています。この句は、松尾芭蕉の作と伝えられていますが、句詠の年月など不詳で、芭蕉の句集の中にも見当たりません。「そりみ坂」は、楚里見坂、曲身坂などと書いて、往時この小高いあたりに、ひばりが特に多く生息していたところから「雲雀が岡」と呼ぶようになりました。
5.鳥取塚 《鳥取》
鳥取塚古墳(円墳)のことをいいます。県道14号線の北側の台地上に位置します。規模はおよそ東西21m×南北17m、高さ2.5mです。かつては4~5基あったといわれていますが、現在はこの古墳のみが残っています。墳丘は草で覆われていますが、墳丘上には珪化木の鳥取塚の碑(明治44年3月建立)があり、横にはヤマザクラの木があります。
6.ちりん坂の「智伝」の碑 《鳥取》
鳥取の旧員弁街道と県道菰野東員線を結ぶなだらかな坂を「ちりん坂」とよんでいます。その中ほどに「律師智伝之碑」が建っています。これは、智伝という名の高僧の碑です。しかし、昭和22年頃、80歳程で死亡したらしいという以外、その来歴などは不明です。また、碑には「素水建之」とありますが、そのいわれや経歴はわかっていません。ただ、その高僧「智伝」の名が、なまって「ちりん」となり、坂の名を「ちりん坂」となったといわれています。碑の表面には、「涼風や 青田見下す 智伝坂」の句があります。
7.大木城址 《大木》
中世城館の一つ。規模は東西45m×南北55m。員弁川に南面した段丘上に位置します。現在土塁や空堀が部分的に残り壇もみられます。『勢陽五鈴遺響』によると、元久3年(1206)に員弁三郎行綱が居住したといわれます。また、『員弁雑誌』によると、永禄年中(1558~1569)に大木舎人(大木安芸守とも大木駿河守ともいう)が居城していましたが、織田信長に降服しその配下になりました。天正4年(1576)に、滝川一益に不信をもたれ、大木舎人は西国に落ちのびたために、廃城になりました。
8.猪名部神社と神事 《北大社》
延喜式内社の一つ。古代猪名部氏の氏神です。明治の合祀により現在の社殿に整備されました。猪名部氏の遠祖、伊香我色男命を主神としています。この地には、6基の古墳がありましたが、合祀の際に全長29mの前方後円墳をはじめ5基の古墳が破壊され、現在は1基のみ変形して残っています。また、この神社の神事として流鏑馬を奉納したのが始まりで、上げ馬神事は毎春行われています。その起源は、鎌倉時代にさかのぼるといわれています。塚の上にはシラカシの巨木があり塚の古さを思わせます。また、社内には「薬師堂」、「閻魔堂」があります。

9.山田廃寺 《山田》
員弁川北岸にある遺跡の一つ。古墳時代~奈良・平安・鎌倉時代に及ぶ遺跡です。現在の東員町の役場等の施設の建っている所です。昭和57年~61年に発掘調査を行いました。その結果、多数の掘立柱建物跡や倉庫跡を検出しました。また、当時の日常生活用品である須恵器、土師器の他に、陶硯、緑釉陶器等の貴重な物も出土しています。これらの遺構、遺物から奈良時代の役所跡の可能性が指摘されています。なお、出土遺物は東員町郷土資料館で展示しています。
10. 鳥取山田神社と狛犬一対 《山田》
鳥取山田神社は、延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社です。即ち、山田は、北山田村(今の鳥取)と共に「鳥取連」が拓いた村で、1100年前には既にこの村と神社がここに存在していたことを物語っています。主神は、「鳥取連」の祖神である天湯河角凝魂命で、明治40年(1907)村内にあった11社八神を合祀し、現在に至っています。社殿東にあるクスノキの巨木は、樹齢千余年といわれ、社の御神木となっています。また、境内には、員弁十景に選ばれた当時の記念碑もあり、宝物庫には江戸中期に桑名藩主が献納したという金色の狛犬一対があります。
11.毘沙門天 《山田》
鳥取山田神社の東隣、字大師堂に通称毘沙門堂があります。本尊毘沙門天は、多聞天とも呼び、七福神の一柱で、古くから「びしゃもんさん」として人々に尊崇されてきました。古伝によると、この毘沙門天は、員弁寺の塔頭で、法明寺の七堂伽藍の中にありましたが、天正年間(1573~1592)織田信長北勢攻めのとき、兵火にあい、焼失寸前に村民の手で運び出されたものだといわれています。その丈、5尺余(160センチメートル余)の仏像で、鳥取山田神社に収めてありましたが、員弁山円光寺の第五代住職善教師により小堂を建て安置されました。文久元年(1861)になって、伊藤周蔵の手で再建され、現在に至っています。礼祭は、毎年4月2日と8月27日です。
12.大山繁木顕彰碑 《山田》
碑は、鳥取山田神社の境内、社殿の西側にあります。大山家は、元和年間(1615~1623)より、明治末まで十世三百余年にわたり代々鳥取山田神社の神官を務めた家柄で、村内は勿論、員弁、桑名、多度、長島など、祭祀を司った神社の数は、31社に及んでいます。中でも、第八代にあたる大山繁木は、文久元年(1861)より明治6年(1873)に至る12年間、宮仕えのほか私財を投じて私塾を開設し、地域の教育向上に偉大な功労がありました。碑は、「大正九年夏五建之」(1920)とあり、発起人として伊藤慎一他5名の名が刻されています。
13.員弁廃寺の礎石 《山田》
員弁寺の塔の心礎とおもわれる古代寺院の礎石が、山田の円光寺に残っています。古代猪名部氏の氏寺である員弁寺が東員町内に存在したという有力な根拠の一つでありますが、その所在地については不明です。
14.大高甲斎の碑 《瀬古泉》
大高甲斎は、その名を兵蔵、またの名を重義といい、文化元年(1805)、瀬古泉の中村家にて出生、幼少の頃より武芸を好み、文政5年(1822)、18才の時、江戸へ出て、伊庭軍兵衛(心形刀流)、長沼勝兵衛(真心陰流)を師として剣法を修業しました。また、亀山藩の柘植氏に従い、日置流の弓道も極めました。天保5年(1834)、郷里瀬古泉に帰り、道場を開いて子弟を指導、その門人は三百余人を数えました。老いてからも、なお、気力軒昂、読書、俳諧にもはげみ、広く人望を集めていたと伝えられています。明治19年(1886)初秋、82歳で没しました。墓石は福泉寺の本堂南側に建てられています。
15.穴太山多井寺 《瀬古泉》
瀬古泉の集落中程に穴太山多井寺が建っています。江戸中期の文献によると、この寺は、中古まで穴太村にあったものをこの地に移したのだとされています。本尊は千手観音で行基の作といい、脇壇には、小野篁の作と伝えられる延命地蔵が安置されています。ともに弘仁年間(810~)勅命によって建立されたものと語りつたえられています。御詠歌には、「水底にやどれる月を汲み分けてかげは多井の暁の空」とあります。寺は現在無住で自治会の管理となっていますが、昔から伝わる年1回の開帳以外、本尊は拝することはできないことになっています。
16.瀬古泉の白峯龍神 《瀬古泉》
瀬古泉に「土仏さん」、「白龍さん」などと呼ばれている小さなお堂があります。長らく荒れはてていましたが、昭和62年2月に改修されました。毎年2月8日は例祭で桑名の土仏山聖衆寺(通称土仏さん)の住職が来て供養をします。それには、こんないい伝えが残っています。
「ある時、土仏さんから来た老女がきて、むかし白龍さんが西の山から流れてきてここに住みついたが、誰もおがんでくれぬのでさみしいというてござる。この白龍さんは当時生えていた大きなエノキの下に住んでござるといったそうである。ところが、そんなこと迷信だといってエノキの枝をはらった人が不思議な熱をだして苦しんだ。そこで土仏さんにおわびのお経をあげてもらってやっと全快した。」
それ以来、社殿も改築されて白峯龍神と崇められるようになったといわれています。
17.薬師如来像 《穴太》
三岐鉄道北勢線穴太駅から徒歩5分の杜の中に薬師堂があります。その本尊の薬師如来像は、高さ2尺9寸5分(約90センチメートル)、檜一木造りの座像で、肩幅が広くどっしりと落着き、男性的な感じがします。平安中期、貞観年間(859~876)の作といわれています。作者こそ不詳ですが、その古色と出来ばえは、当時の有名な仏師の手によるものと鑑定されています。もとは、その南側にあった某寺の仏像として祀られていたものを、江戸時代この地に移したもので、その時新しく彩色されたと伝えられています。昭和32年10月10日、三重県有形文化財に指定され、穴太自治会が管理しています。
18.穴太徳(中野徳次郎)の墓 《穴太新田》
講談や浪曲で流布された荒神山(高神山が正しい)の血闘は、慶応2年(1866)4月8日、現在の鈴鹿市の高塚山で、賭場争いから桑名の神戸屋徳次郎こと穴太徳と神戸の長吉(本名:初芝才次郎)がそれぞれ子分をひきつれて乱闘の血を流した事件です。結果として穴太徳が負けて、それまで持っていた賭場を神戸の長吉にかえして詫びをいれ、一応解決しました。この中野徳次郎は、遊び人でしたが人情にあつく義きょう心もあり地域では信望がありました。穴太徳は穴太で生まれ、その生家も長く残っていましたが今はありません。その墓は穴太新田の濃州街道にそった辻由男氏の庭先に建っています。辻氏と穴太徳とは特別の関係はありませんが、穴太徳の甥という人にたのまれてその敷地を貸しただけといわれています。
19.筑紫の地蔵さん 《筑紫》
筑紫の地蔵さんは、中世の兵乱で苦しんだ民衆を救うために全国各地に刻まれた地蔵尊の一つで、もとは筑紫字赤野の禅宗臨済宗派の禅定寺に祀られていました。その後、禅定寺は明暦3年(1657)、四日市塩浜大字馳出に移されて現在は浄土宗鎮西派金剛寺となっています。その移転の理由はわかりませんが、移転の時に木造の地蔵尊を筑紫に残していったので、村民はこれを大切に守ってきました。ところが、この地蔵さんのお守りをしていた「おきしさん」という老女の家が焼け、また、おきしさん自身も老齢となり、やがて亡くなったため種村長太夫という人が内仏として祀っていました。この地蔵さんは昭和44年8月24日、筑紫区によって新しい堂に移されて今も多くの信仰を集めています。
20.筑紫の大連の碑 《筑紫》
『続員弁雑誌』に、大字筑紫字林の草生地に3歩ばかりの大字の所有地があり、そこに「筑紫連墓」と表に書き、裏に「明治23年、大字によって建つ」としるされた石碑があります。そして、このあたりから鉄器や土器が発見されましたが、悪いたたりがあると恐れた土地の人たちは土中に深く埋めたと伝えられています。現在の「筑紫大連」の碑は昭和3年に御大典記念として大字筑紫区により建てられたものです。
21.藤谷万次郎先生之碑 《中上》
藤谷万次郎は、中上の庄屋藤谷伝左衛門正義の二男に生れ、幼き頃より学を好み算数ことに珠算に長じていました。珠算塾を開いて、村の若者を教えていました。教えを受けた生徒達は、中上の中央を流れる、梅の花の香る三狐子川の堤防のたもとに、遍崇寺の学僧花山大安師に碑文を書いてもらい、万次郎先生の徳をたたえて碑を建てました。この碑文によると、藤谷万次郎翁は塾の入口に「敏速算舎」という木札をかかげて三十余年にわたり熱心に珠算を教え、その弟子の数は一千人をこえました。塾のそばを通ると、そろばんをはじく音が大雨の降るような音をたて道行く人を驚かせたといいます。碑の建てられたのは大正7年(1918)3月でした。嘉永6年(1853)1月18日生まれで大正9年(1920)9月20日67歳で没しました。
22.多奈閇神社 《中上》
古くから(勧請年不詳)天日鷲命を主神とし、天之児屋根命・品陀和気命(誉田別名)を合祀しています。延喜式神名帳には員弁郡十座の内に多奈閇神社として記されています。その他、姓氏録などの古文書にもその名があることから由緒深い「延喜式内社」です。もと、中上村の産土神は、社殿はもと南向きでしたが、社殿を建てかえた時に東向きとし、旧拝殿は祭具入れに改めました。神霊は男女の古木像2体と束帯の像2体です。棟札に「奉造立、田辺大明神拝殿氏子中延享二歳8月吉日」とあります。大明神号を称して中上村五村の惣社でしたが明治40年(1907)11月11日村内の小社を合祀し43年に久米神社と改めました。

23.新野遺跡
員弁川南岸にある遺跡の一つ。古墳時代~奈良時代にかけての遺跡。日東タイヤ株式会社(現TOYOTIRE株式会社)の工場進出に伴い、昭和45年~46年三重県教育委員会が発掘調査を実施し、調査の結果、多数の竪穴住居跡、掘立柱建物跡を検出しました。西山遺跡は7世紀中頃の古代村落跡であることがわかりました。特に鍛冶を専業とした村落ともいえます。新野遺跡も古代村落跡です。なお、西山・新野遺跡の須恵器等の出土遺物は三重県教育委員会が保管しています。

24.西山遺跡《中上》
員弁川南岸にある遺跡の一つ。古墳時代~奈良時代にかけての遺跡。日東タイヤ株式会社(現TOYOTIRE株式会社)の工場進出に伴い、昭和45年~46年三重県教育委員会が発掘調査を実施し、調査の結果、多数の竪穴住居跡、掘立柱建物跡を検出しました。西山遺跡は7世紀中頃の古代村落跡であることがわかりました。特に鍛冶を専業とした村落ともいえます。新野遺跡も古代村落跡です。なお、西山・新野遺跡の須恵器等の出土遺物は三重県教育委員会が保管しています。
25.中上城址 《中上》
中世城館の一つ。花扉城ともいいます。TOYOTIRE株式会社桑名工場の北、三狐子川に北面する台地上に位置します。東西160m×南北60mの規模を有します。現在何本もの土塁が残っています。『員弁雑誌』によると、明応年間(1492~1590)、坂太郎左衛門(坂兵左衛門とも、坂中務ともいう)が建城したといいます。廃城の時期は不明です。なお城主の坂家は敗戦の後、仏門に入り、蓮如上人に帰依し、中上に寺を建て、花戸山遍崇寺として現在まで続いています。
26.景清松 《長深》
長深字花戸に大松があり、樹齢凡そ530年の古木と『続員弁雑誌』に記されています。景清松とは、寿永4年(1185)、平家が滅びた時にその一門で武勇にすぐれた上総七郎兵衛景清が元久米村志知へ落ちのびてきて、志知に移り住んでいたとも伝えられています。その後、景清は長深にも移り住みました。景清屋敷は志知にありますが、景清松は長深花戸にあり、一名天狗松ともいわれ、景清が植えた松だとも、景清の墓に誰かが植えた松だとも伝えられています。昭和2年10月6日には天然記念物として指定され碑が建てられました。その碑は現在長深公民館に移されています。
27.瑞応寺と第一世実性(景川和尚)の像 《長深》
瑞応寺は臨済宗妙心寺派に属し、千手観音菩薩を本尊としています。妙心寺の第十世実性禅師が文明年間(1469~1486)に開基したと伝えられています。長深城主、冨永氏の菩提所で、長深城第二代目の城主冨綱が中上村に冨春院を建てましたが、三代目冨輝は妙心寺から実性禅師を迎えて、冨春院をこの地に移し慈恩山瑞応寺としました。その後、実性は妙心寺へ帰り、妙心寺第十五世の松岳がその後を継いでいます。ところが、天正2年(1574)、長深城主四世の冨永冨知の代になって、織田信長の武将瀧川一益に攻められ、尾張の国へ逃げたため、城塞と共に広大な寺院も焼かれ、大勢いた僧も分散しましたが、万治3年(1660)、宗勝によって再興されました。第一世実性の肖像が残っていて、三重県の有形文化財に指定されています。
28.鳥羽海の墓 《長深(東守)》
長深には、鳥羽海という力士の墓が東守と北守二ヵ所にあります。その頃は江戸相撲と大阪相撲にわかれていたが鳥羽海は文政8年(1825)9月の大阪相撲で「西の小結」として出場していました。又相撲博物館の調査では、文化14年(1817)5月入門し、「東二段目八七」に番付され、鳥羽海基介と名乗っていましたが文政5年(1822)6月には「東二段目の十一番」に昇進し、「鳥羽海仙治」と改名し、文政12年(1829)に伊勢で没したとなっています。門弟が嘉永元年(1848)9月19日にその墓を建て鳥羽海の偉業をたたえ、その霊をとむらったものが東守にある鳥羽海の墓です。北守の墓は、文政12年(1829)にこれも門弟が建てたと記されています。鳥羽海の四股名は、伊勢国出身の力士の間において何度も襲名されたのではないでしょうか。
29.鳥羽海の墓 《長深(北守)》
長深には、鳥羽海という力士の墓が東守と北守二ヵ所にあります。その頃は江戸相撲と大阪相撲にわかれていたが鳥羽海は文政8年(1825)9月の大阪相撲で「西の小結」として出場していました。又相撲博物館の調査では、文化14年(1817)5月入門し、「東二段目八七」に番付され、鳥羽海基介と名乗っていましたが文政5年(1822)6月には「東二段目の十一番」に昇進し、「鳥羽海仙治」と改名し、文政12年(1829)に伊勢で没したとなっています。門弟が嘉永元年(1848)9月19日にその墓を建て鳥羽海の偉業をたたえ、その霊をとむらったものが東守にある鳥羽海の墓です。北守の墓は、文政12年(1829)にこれも門弟が建てたと記されています。鳥羽海の四股名は、伊勢国出身の力士の間において何度も襲名されたのではないでしょうか。
30.長深城址 《長深》
中世城館の一つ。善正寺の境内がそれです。東西88m×南北75mの規模を有します。現在、土塁が残り、壇もあり、本丸、二之丸の区画も推定されています。『員弁雑誌』によると、暦応年間(1338~1348)、冨永筑後守冨春が築城し、その後冨継、冨輝、冨知、と継ぎましたが、永禄11年(1568)に織田信長勢の夜討により滅ぼされました。城主の一族が、城址に冨永山善正寺を天正9年(1581)に創設し、現在まで続いています。
31.三月堂 《長深》
長深北一色に江戸期以前、酒屋徳右ヱ門という人が住んでいて、お堂を建て、観世音菩薩を安置し、毎年3月18日に誦経供養していました。年がたって酒屋徳右ヱ門が死去して、その志を継ぐ者がなくなりました。そのためお堂も荒れるにまかせていたので本尊の観世音菩薩は瑞應寺に預けられました。その後兵乱があり瑞應寺も焼かれ、観音像もどうなったか人々に忘れられていました。文政3年(1820)2月18日に城下(桑名)より、伊藤宗兵衛という人が長深に来て、長嶋の長左ヱ門という漁師の網にかかった観音像が、長深に帰りたいといわれるから、ぜひこの村で祀ってほしいといわれました。この話に感激した村人たちはこの観音像を三月堂に祀り代々尊崇してきたと伝えられています。
32.船連之碑 《長深》
長深字生木というところに4坪(13平方メートル)ばかりの古墳がありました。明治8年(1875)に村人が掘り返してみると、金環や土器などが出てきました。近くには、船山とか船塚という名が残っています。「姓氏録」には「船連」という名もあるため、あるいはこの人の墓ではないかとされています。大正の初め耕地整理のときにも土器類が出たので大正3年(1914)広田庄太郎が今の所に移して「舟連墓」と石に刻み祀っていました。「船連」は造船、海運などをつかさどる豪族と思われます。昭和62年広田庄太郎の長男、政次郎氏(名古屋市在住)が父の志を継ぎ、新しい「船連之墓」が建立されました。
33.一色正芳の碑 《南大社》
一色正芳は、和算の権威者で延享4年(1747)伊勢国員弁郡南大社郷、庄屋清水藤左衛門正親の八男に生まれ、幼名を八太郎と呼びました。通称を太郎兵衛といい、13歳の時、同じ村の里正(庄屋)一色忠左ヱ門の娘タノと結婚し養子となりました。そのため改姓して一色太郎兵衛博孝と名乗り、後に庄屋の職を継ぎ諱を正芳といいました。独特の珠算として「正芳流百日算」を創始し、その門下生は七百人にも及んだといわれています。それらの門下生はそれぞれ各地へもどってこの百日算を広めていったので「正芳流百日算」はますます発展していきました。このほか正芳は地域開発、道路の改修、産業の発展にも尽力しました。文政4年(1821)5月8日74歳で没し、その墓は南大社の共同墓地に清水家と並んで建てられています。

34.村前遺跡 《瀬古泉》
村前遺跡は、エバ工業株式会社の工場進出に伴い、平成4年度に町教育委員会が発掘調査を実施。調査の結果、縄文時代・古墳時代・平安時代の3つの時代に集落をつくっていたことがわかりました。縄文のころの野外炉・竪穴住居、古墳のころの竪穴住居、平安のころの掘立柱建物を検出しています。また、3つの時代に住んでいた人々が使っていた土器や石器、土師器や須恵器、灰釉陶器、緑釉陶器が多数出土し、遺物は東員町郷土資料館に展示しています。

35.山田溜 《山田》
江戸時代中期桑名藩主のすすめで、この地の開墾が進められましたが、水源がないため山田溜が築堤されました。灌漑面積9haの農業用溜池で、通称三段溜といい、周囲に自然林を残し水鳥が飛来する水辺が広がっています。平成7年集落水辺環境整備事業として、溜と周辺の緑地が自然公園として整備されました。江戸時代から引き継がれてきた、ひとつの文化として町の財産としての景観が広がっています。
36.白草稲荷神社 《北山田》
主神は稲荷社、宇迦之御魂命、山神社、大山祇社、伏見稲荷神社です。由来は明和年間(1764~1772)の初期に北山田へ移り住んだ人々が、開運と火事流行病は出さないと神のお告げがあったとの由来から信仰し祀ったと伝えられています。
37.御厨神明社・六把野獅子舞 《六把野新田》
寛永14年(1637)2月六把野井水を開こうとして皇大神宮に祈願しこの地に氏神として奉鎮しました。明治39年合祀勅令・県合祀訓令により明治40年11月各地に鎮座した八幡社、市神社、山ノ神、火産霊社を奉祀して六把野御厨神明社と唱え祀られました。
39.道標「香取道」 《六把野新田》
香取道は、六把野新田の地蔵堂東側から大仲新田を通り嘉例川を経て多度へ通じている道で、昔は三、四尺の狭い道でありましたが多度祭のときには多くの参拝客でにぎわいました。濃州街道からこの香取道へわかれる角に古い道標があります。
39.福塚古墳 《六把野新田》
被葬者は、不詳です。大きさ約二坪、三尺の高さで、一面の雑草のなかに一本の木が生育しています。一説には奥州南部藩の南部長左衛門がこの地を開拓した際、故郷の源氏の祖神、氏神八幡社を祀った跡といわれています。八幡社は一時150mほど北側に移されましたが、明治39年の合祀令のとき六把野御厨神明社に合祀されました。
41.神田小学校跡 《六把野新田》
明治34年に、穴太の弘道・鳥取の養義両校が合併して神田尋常高等小学校を創立しました。その後、昭和48年神田小学校が移転後に神田公園として整備されました。
42.顔なし地蔵 《六把野新田》
病気の人に自分の目・耳・鼻・口などを与えて治したので「顔なし地蔵」と言われています。元はここから、北150mの山の神(新宮)にありましたが、明治39年(1906)の合祀令の際、山の神が廃宮された時この場所に移されました。
43.青木駿河守の碑 《鳥取》
駿河守平安豊の遺骸を埋めた跡といわれています。広さ約三坪、中央には昔、老樹が一本ありましたが今はありません。昭和52年「笹尾城主青木駿河守平安豊之塚」を建て、その裏には「天正元年九月二十六日織田の兵火で三百坊はことごとく焼失し、笹尾城は落城して城主駿河守は此所に自決せり」と刻まれています。
44.八幡神社 《八幡新田》
誉田別命を主神とし、明治41年4月24日に阿岐波社、火産霊社、山神社、神明社を合祀しています。『員弁雑誌』には「当新田ハ元来大木村ノ地内デアッタガ、新田開発ノ時大木村ノ産土神八幡宮鎮座ノ近辺ニアル故ニ八幡新田ト称シ大木村ヨリ分立シ大木村ノ八幡宮ヲ中古勧請シタモノデアル」と記されています。
45.大木神社 《大木》
誉田別命を主神とし、明治41年8月8日に熊野社、若宮社、天王社、赤口社、山神社、神明社を合祀し、昔は字大鳥居前に鎮座し、八幡神社といいました。天正の兵火により焼失して勧請されましたが、年月は不明です。
46.薬師堂《北大社》
薬師如来は、北山田村にあった三百坊を有する員弁寺の大徳法住上人の作で、同寺に安置されていました。北大社村の篤信家早川忠左衛門が薬師如来のお告げで早川家に祀られました。その後、台風によるお堂の破壊など数回の移転を経て現在の場所に安置されています。また、1000年程昔より「えんまさん」の話が北大社に伝わっています。その閻魔堂が薬師堂と並んで建っています。
47.旧郡役所 《南大社》
明治11年(1878)の郡区町村編制法により、員弁郡が発足しました。旧員弁郡役所は明治12年(1879)にこの地に置かれました。明治16年(1883)に楚原村に移り、大正15年まで続いた郡内で最初の役所です。
48.旧東員郵便局 《南大社》
明治7年(1874)南大社四等郵便取扱所が開設され、清水伝右衛門を所長として郵便業務郵便集配が始められました。明治19年(1886)に南大社郵便局と改め、明治42年大長郵便局となりました。昭和30年東員郵便局と改称し、現在の局舎が開局する昭和49年まで使われました。
49.念仏橋・念仏小橋 《中上》
明治37年員弁川をはさんで南北地区にある寺院への参詣の便を図るため、各寺院の法座ごとに寄付金をつのり、川の瀬に費用が少なく管理しやすい板橋がかけられました。その後、水害や火災による流出や損壊を経て昭和39年の復旧を機に「東員大橋、東員小橋」と改名されましたが、現在は地元の人々のこの橋に寄せる思いと尽力により「念仏大橋、念仏小橋」の名前が復活しました。
50.六把野古井水 《八幡新田》
員弁川より高い町の北部は、江戸時代において稲作が難しく、農業用水を必要とする人々の願いをうけ、麻生田(いなべ市北勢町)万笑院の文華大和尚より初代桑名城主本田忠勝公に懇願し忠勝公の命により着工し、麻生田の員弁川左岸を取水口として大仲新田(桑名市)までの全長12kmの水路が寛永12年(1635)に完成しました。途中、太田川や戸上川など井水より高い川をくぐらせるためにサイホン式の工夫が施され、400年前の人々の知恵と工夫が人々を豊かにしました。
51.六把野新井水 《鳥取》
六把野古井水の長年の通水と老朽化による水漏れ等を解消するため、大木(東員町)の藤田平左衛門が北金井(いなべ市員弁町)員弁川左岸からの水路を宝暦9年(1759)に完成させました。現在の取水口はいなべ市大安町三笠橋の東にあります。
52.神田用水 《鳥取》
六把野古井水、六把野新井水の水不足を解消するため昭和25年(1950)、県営灌漑事業第1号の三段揚げ方式で完成しました。山田(東員町)員弁川左岸を取水口として約4km北の三百坊という丘陵地(その高低差51m)まで三箇所のポンプ場により水が揚げられました。神田用水は現在も神田土地改良区(東員町山田)により管理され、町内の多くの水田に農業用水を供給しています。
文化財マップ
これらの文化財をまとめた「文化財マップ」を発行しています。
更新日:2024年05月10日