東員町文化財について

更新日:2024年05月10日

東員町文化財について

東員町の文化財について紹介します。次の文化財名をクリックしてください。

 

  1. 穴太の弁天さん(厳嶋神社)
  2. 山田城址《城山》
  3. 鳥取神社《鳥取》
  4. 道標「雲雀が岡」 《鳥取》
  5. 鳥取塚 《鳥取》
  6. ちりん坂の「智伝」の碑 《鳥取》
  7. 大木城址 《大木》
  8. 猪名部神社と神事 《北大社》
  9. 山田廃寺 《山田》
  10. 鳥取山田神社と狛犬一対 《山田》
  11. 毘沙門天 《山田》
  12. 大山繁木顕彰碑 《山田》
  13. 員弁廃寺の礎石 《山田》
  14. 大高甲斎の碑 《瀬古泉》
  15. 穴太山多井寺 《瀬古泉》
  16. 瀬古泉の白峯龍神 《瀬古泉》
  17. 薬師如来像 《穴太》
  18. 穴太徳(中野徳次郎)の墓 《穴太新田》
  19. 筑紫の地蔵さん 《筑紫》
  20. 筑紫の大連の碑《筑紫》
  21. 藤谷万次郎先生之碑 《中上》
  22. 多奈閇神社 《中上》
  23. 新野遺跡《中上》
  24. 西山遺跡《中上》
  25. 中上城址 《中上》
  26. 景清松 《長深》
  27. 瑞応寺と第一世実性(景川和尚)の像 《長深》
  28. 鳥羽海の墓 《長深(東守)》
  29. 鳥羽海の墓 《長深(北守)》
  30. 長深城址《長深》
  31. 三月堂《長深》
  32. 船連之碑 《長深》
  33. 一色正芳の碑 《南大社》
  34. 村前遺跡 《瀬古泉》
  35. 山田溜 《山田》
  36. 白草稲荷神社 《北山田》
  37. 御厨神明社・六把野獅子舞 《六把野新田》
  38. 道標「香取道」 《六把野新田》
  39. 福塚古墳 《六把野新田》
  40. 六把野道場 《六把野新田》
  41. 神田小学校跡 《六把野新田》
  42. 顔なし地蔵 《六把野新田》
  43. 青木駿河守の碑 《鳥取》
  44. 八幡神社 《八幡新田》
  45. 大木神社 《大木》
  46. 薬師堂・閻魔堂 《北大社》
  47. 旧郡役所 《南大社》
  48. 旧東員郵便局 《南大社》
  49. 念仏橋・念仏小橋 《中上》
  50. 六把野古井水 《八幡新田》
  51. 六把野新井水 《鳥取》
  52. 神田用水 《鳥取》
弁天さん(厳嶋神社)の全景

1.()(のう)弁天(べんてん)さん((げん)(しま)神社(じんじゃ)) 《()(のう)

鎌倉(かまくら)室町(むろまち)時代(じだい)には穴太は伊勢(いせ)神宮領(じんぐうりょう)でした。そのため農耕(のうこう)には()くことのできない(みず)神様(かみさま)として「(いち)杵島(きしま)(ひめ)(のみこと)」を安芸(あきの)(くに)広島県(ひろしまけん))の宮島(みやじま)(いつく)(しま)神社(じんじゃ)から分社(ぶんしゃ)してもらって「弁天山(べんてんやま)(いつく)(しま)神社(じんじゃ)」を()ててお(まも)りしてきたと(つた)えられています。昭和(しょうわ)58(ねん)5(がつ)(あたら)しい神殿(しんでん)石段(いしだん)完成(かんせい)し、毎年(まいとし)9(がつ)8(にち)弁天(べんてん)(さい)として例祭(れいさい)(おこな)っています。

 

山田城址の空撮画像

2.山田(やまだ)城址(じょうあと)城山(しろやま)

中世(ちゅうせい)城館(じょうかん)(ひと)つ。笹尾(ささお)(じょう)ともいいます。中心部(ちゅうしんぶ)規模(きぼ)東西(とうざい)81m×南北(なんぼく)35mです。『員弁(いなべ)雑誌(ざっし)』によると、城主(じょうしゅ)青木(あおき)駿河(するが)(のもり)平安(たいらのやす)(とよ)(てん)(しょう)2年(2ねん)(1574)に織田(おだ)信長(のぶなが)(ほろ)ぼされました。昭和(しょうわ)57(ねん)(しろ)山地区(やまちく)団地(だんち)造成(ぞうせい)(ともな)い、東員町(とういんちょう)教育(きょういく)委員会(いいんかい)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)(おこな)いました。調査(ちょうさ)結果(けっか)数棟(すうとう)建物(たてもの)(あと)戦国(せんごく)時代(じだい)日用(にちよう)土器(どき)(せっ)(けn)中国(ちゅうごく)(せん)中国(ちゅうごく)製陶(せいとう)磁器(じき)(など)出土(しゅつど)しました。遺物(いぶつ)は、東員町(とういんちょう)郷土(きょうど)資料館(しりょうかん)展示(てんじ)されています。

 

鳥取神社の鳥居

3.鳥取(とっとり)神社(じんじゃ)鳥取(とっとり)

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、現在(げんざい)(しゃ)(かく)村社(むらしゃ)です。(あまの)湯河(ゆかわの)(たなの)(みこと)(しゅ)(しん)とし、その()七柱(しちはしら)(かみ)(まつ)られています。(あざ)長澤(ながさわ)旧名(きゅうめい)川中島(かわなかじま)といいました。長澤(ながさわ)(がわ)(すな)谷川(やがわ)合流(ごうりゅう)している地点(ちてん)からでた地名(ちめい)であるとされています。明治44年11月8日、神明社ほか七社を合祀して現在に至っています。桑名藩(くわなはん)歴代(れきだい)藩主(はんしゅ)からも(あつ)(すう)(けい)をうけましたが、(とく)五代目(ごだいめ)松平(まつだいら)越中(えっちゅうの)(かみ)定綱(さだつな)神社(じんじゃ)(ちか)くに別荘(べっそう)(たて)てたびたび参拝(さんぱい)しました。そして長船(おさふね)(すけ)(さだ)(めい)がある脇差(わきざし)奉納(ほうのう)し(年月(ねんげつ)不詳(ふしょう))、現在(げんざい)神宝(しんぽう)として保存(ほぞん)されています。以来(いらい)桑名(くわな)藩主(はんしゅ)は、(だい)がかわるたびに参拝(さんぱい)しています。第十四代(だいじゅうよんだい)藩主(はんしゅ)松平忠堯(まつだいらただたか)忍藩(おしはん)国替(くにが)えになったため、別荘(べっそう)(はい)()されました。

道標「雲雀が岡」の画像

4.道標(みちしるべ)雲雀(ひばり)(おか)鳥取(とっとり)

鳥取(とっとり)旧員弁(きゅういなべ)街道(かいどう)大木(おおき)(みち)(わか)れる()(だか)(ところ)道標(みちしるべ)がたっています。これは長年(ながねん)雑草(ざっそう)(なか)(つち)()もれていたものを、近年(きんねん)地区(ちく)人々(ひとびと)()復元(ふくげん)されたもので、文化(ぶんか)14(ねん)(1817)鳥取(とっとり)俳人岩田卜(はいじんいわたぼく)(さい)によって()てられました。()には「(みぎ)あげき、はった、(ひだり)(おお)いづみ、(いし)ぐれ」と(こく)され、その裏面(うらめん)に「(くも)いくへ ひばり()くなりそりみ(ざか)」の()(しる)されています。この()は、松尾(まつお)芭蕉(ばしょう)(さく)(つた)えられていますが、()(えい)年月(ねんげつ)など不詳(ふしょう)で、芭蕉(ばしょう)句集(くしゅう)(なか)にも見当(みあ)たりません。「そりみ(ざか)」は、()里見坂(りみざか)(そり)身坂(みざか)などと()いて、往時(おうじ)この()(だか)いあたりに、ひばりが(とく)(おお)(せい)(そく)していたところから「雲雀(ひばり)(おか)」と()ぶようになりました。

鳥取塚の全景

5.鳥取(とっとり)(づか)鳥取(とっとり)

鳥取(とっとり)(づか)古墳(こふん)円墳(えんぷん))のことをいいます。県道(けんどう)14(ごう)(せん)北側(きたがわ)(だい)地上(ちじょう)位置(いち)します。規模(きぼ)はおよそ東西(とうざい)21m×南北(なんぼく)17m、(たか)さ2.5mです。かつては4~5()あったといわれていますが、現在(げんざい)はこの古墳(こふん)のみが(のこ)っています。(ふん)(きゅう)(くさ)(おお)われていますが、(ふん)丘上(きゅうじょう)には珪化(けいか)(ぼく)鳥取(とっとり)(づか)()明治(めいじ)44(ねん)3(がつ)建立(こんりゅう))があり、(よこ)にはヤマザクラの()があります。

 

 

ちりん坂の「智伝」の碑の画像

6.ちりん(ざか)の「智伝(ちでん)」の()鳥取(とっとり)

鳥取(とっとり)旧員弁(きゅういなべ)街道(かいどう)県道(けんどう)菰野(こもの)東員(とういん)(せん)(むす)ぶなだらかな(さか)を「ちりん(ざか)」とよんでいます。その(なか)ほどに「律師智伝之(りっしちでんの)()」が()っています。これは、()(でん)という()(こう)(そう)()です。しかし、(しょう)()22(ねん)(ごろ)、80(さい)(ほど)()(ぼう)したらしいという()(がい)、その来歴(らいれき)などは不明(ふめい)です。また、()には「素水建之(そすいこんりゅう)」とありますが、そのいわれや経歴(けいれき)はわかっていません。ただ、その高僧(こうそう)智伝(ちでん)」の()が、なまって「ちりん」となり、(さか)()を「ちりん(ざか)」となったといわれています。()表面(ひょうめん)には、「涼風(すずかぜ)(あお)()()(くだ)智伝坂(ちでんざか)」の()があります。

大木城址の全景

7.大木(おおき)城址(じょうあと)大木(おおき)

中世(ちゅうせい)城館(じょうかん)(ひと)つ。規模(きぼ)東西(とうざい)45m×南北(なんぼく)55m。員弁(いなべ)(かわ)南面(なんめん)した段丘上(だんきゅうじょう)位置(いち)します。現在(げんざい)土塁(どるい)空堀(からぼり)部分的(ぶぶんてき)(のこ)(だん)もみられます。『勢陽五鈴遺(せいようごれいい)(きょう)』によると、元久(げんきゅう)3(ねん)(1206)に員弁(いなべ)三郎(さぶろう)(ゆき)(つな)居住(きょじゅう)したといわれます。また、『員弁(いなべ)雑誌(ざっし)』によると、(えい)(ろく)年中(ねんちゅう)(1558~1569)に大木(おおき)舎人(とねり)大木(おおき)安芸(あきの)(かみ)とも大木(おおき)駿河(するがの)(かみ)ともいう)が居城(きょじょう)していましたが、織田(おだ)信長(のぶなが)(こう)(ふく)しその(はい)()になりました。(てん)(しょう)4(ねん)(1576)に、滝川一益(たきがわかずます)不信(ふしん)をもたれ、大木(おおき)舎人(とねり)西国(さいごく)()ちのびたために、(はい)(じょう)になりました。

稲部神社の全景

8.猪名部(いなべ)神社(じんじゃ)神事(しんじ)(きた)大社(おやしろ)

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の一つ。古代(こだい)猪名部(いなべ)()氏神(うじがみ)です。明治(めいじ)合祀(ごうし)により現在(げんざい)社殿(しゃでん)整備(せいび)されました。猪名部(いなべ)()遠祖(えんそ)伊香(いか)()色男(しこおの)(みこと)(しゅ)(しん)としています。この()には、6()古墳(こふん)がありましたが、合祀(ごうし)(さい)全長(ぜんちょう)29mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)をはじめ5()古墳(こふん)破壊(はかい)され、現在(げんざい)は1()のみ変形(へんけい)して(のこ)っています。また、この神社(じんじゃ)神事(しんじ)として流鏑馬(やぶさめ)奉納(ほうのう)したのが(はじ)まりで、()(うま)(しん)()毎春(まいしゅん)(おこな)われています。その起源(きげん)は、鎌倉(かまくら)時代(じだい)にさかのぼるといわれています。(つか)(うえ)にはシラカシの巨木(きょぼく)があり(つか)古さ(ふるさ)(おも)わせます。また、社内(しゃない)には「薬師堂(やくしどう)」、「閻魔堂(えんまどう)」があります。

山田廃寺の全容

9.山田(やまだ)廃寺(はいじ)山田(やまだ)

員弁(いなべ)(がわ)北岸(ほくがん)にある遺跡(いせき)(ひと)つ。古墳(こふん)時代(じだい)奈良(なら)平安(へいあん)鎌倉(かまくら)時代(じだい)(およ)()(せき)です。現在(げんざい)東員町(とういんちょう)役場(やくば)(とう)施設(しせつ)()っている(ところ)です。昭和(しょうわ)57年~61(ねん)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)(おこな)いました。その結果(けっか)多数(たすう)(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)(あと)倉庫(そうこ)(あと)検出(けんしゅつ)しました。また、当時(とうじ)日常(にちじょう)生活(せいかつ)用品(ようひん)である須恵器(すえき)土師器(はじき)(ほか)に、(とう)(けん)緑釉(りょくゆう)陶器(とうき)(とう)貴重(きちょう)(もの)出土(しゅつど)しています。これらの遺構(いこう)遺物(いぶつ)から奈良(なら)時代(じだい)役所(やくしょ)(あと)可能性(かのうせい)指摘(してき)されています。なお、出土(しゅつど)遺物(いぶつ)東員町(とういんちょう)郷土(きょうど)資料館(しりょうかん)展示(てんじ)しています。

鳥取山田神社の全景

10. 鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)狛犬(こまいぬ)一対(いっつい)山田(やまだ)

鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)は、延喜式(えんぎしき)神名帳(しんめいちょう)記載(きさい)されている由緒(ゆいしょ)ある神社(じんじゃ)です。(すなわ)ち、山田(やまだ)は、北山田村(きたやまだむら)(いま)鳥取(とっとり))と(とも)に「鳥取連(とっとりむらじ)」が(ひら)いた(むら)で、1100年前(ねんまえ)には(すで)にこの(むら)神社(じんじゃ)がここに存在(そんざい)していたことを物語(ものがた)っています。(しゅ)(しん)は、「鳥取連(とっとりむらじ)」の()(しn)である天湯河角凝(あまのゆかわのつのこり)(むすひの)(みこと)で、明治(めいじ)40(ねん)(1907)村内(そんない)にあった11(しゃ)八神(はちしん)合祀(ごうし)し、現在(げんざい)(いた)っています。社殿(しゃでん)(ひがし)にあるクスノキの巨木(きょぼく)は、樹齢(じゅれい)千余年(せんよねん)といわれ、(しゃ)御神木(ごしんぼく)となっています。また、境内(けいだい)には、員弁(いなべ)十景(じっけい)(えら)ばれた(とう)()記念(きねん)()もあり、宝物庫(ほうもつこ)には江戸(えど)中期(ちゅうき)桑名(くわな)藩主(はんしゅ)献納(けんのう)したという金色(こんじき)狛犬(こまいぬ)一対(いっつい)があります。

毘沙門天のアップ画像

11.毘沙門天(びしゃもんてん)山田(やまだ)

鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)東隣(ひがしどなり)(あざ)大師堂(だいしどう)通称(つうしょう)毘沙門堂(びしゃもんどう)があります。本尊(ほんぞん)毘沙門天(びしゃもんてん)は、多聞天(たもんてん)とも()び、七福神(しちふくじん)一柱(ひとはしら)で、(ふる)くから「びしゃもんさん」として人々(ひとびと)尊崇(そんすう)されてきました。古伝(こでん)によると、この毘沙門天(びしゃもんてん)は、員弁寺(いなべじ)塔頭(たっちゅう)で、(ほう)明寺(めいじ)七堂(しちどう)伽藍(がらん)(なか)にありましたが、(てん)正年間(しょうねんかん)(1573~1592)織田(おだ)信長(のぶなが)北勢(ほくせい)()めのとき、兵火(へいか)にあい、焼失(しょうしつ)寸前(すんぜん)村民(そんみん)()(はこ)()されたものだといわれています。その丈、5尺余(しゃくあまり)(160センチメートル(あまり))の仏像(ぶつぞう)で、鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)(おさ)めてありましたが、員弁山(いなべさん)円光寺(えんこうじ)第五代(だいごだい)住職(じゅうしょく)(ぜん)教師(きょうし)により小堂(しょうどう)()(あんち)置されました。(ぶん)(きゅう)元年(がんねん)(1861)になって、伊藤(いとう)周蔵(しゅうぞう)()再建(さいけん)され、現在(げんざい)(いた)っています。(れい)(さい)は、毎年(まいとし)4(がつ)2日(ふつか)と8(がつ)27(にち)です。

山田地区にある大山繁木顕彰碑

12.大山(おおやま)(しげ)()顕彰(けんしょう)()山田(やまだ)

()は、鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)境内(けいだい)社殿(しゃでん)西側(にしがわ)にあります。大山家(おおやまけ)は、元和(げんな)年間(ねんかん)(1615~1623)より、明治(めいじ)(すえ)まで(じゅっ)(せい)三百余年(さんびゃくよねん)にわたり代々(だいだい)鳥取(とっとり)山田(やまだ)神社(じんじゃ)神官(しんかん)(つと)めた(いえ)(がら)で、村内(そんない)勿論(もちろん)員弁(いなべ)桑名(くわな)多度(たど)長島(ながしま)など、祭祀(さいし)(つかさど)った(じんじゃ)社の(かず)は、31(しゃ)(およ)んでいます。(なか)でも、第八代(だいはちだい)にあたる大山(おおやま)(しげ)()は、(ぶん)(きゅう)元年(がんねん)(1861)より明治(めいじ)6(ねん)(1873)に(いた)る12年間(ねんかん)(みや)(づか)えのほか私財(しざい)(とう)じて()(じゅく)開設(かいせつ)し、地域(ちいき)教育(きょういく)向上(こうじょう)偉大(いだい)功労(こうろう)がありました。()は、「大正九年夏五建之(たいしょうきゅうねんなつごこれをたてる)」(1920)とあり、発起人(ほっきにん)として()(とう)(しん)(いち)(ほか)5(めい)()(こく)されています。

員弁廃寺の礎石1

13.員弁(いなべ)廃寺(はいじ)礎石(そせき)山田(やまだ)

員弁寺(いなべじ)(とう)(しん)()とおもわれる古代(こだい)寺院(じいん)礎石(そせき)が、山田(やまだ)円光寺(えんこうじ)(のこ)っています。古代(こだい)猪名部(いなべ)()氏寺(うじでら)である員弁寺(いなべじ)東員(とういん)町内(ちょうない)存在(そんざい)したという有力(ゆうりょく)根拠(こんきょ)(ひと)つでありますが、その所在地(しょざいち)については不明(ふめい)です。

瀬古泉にある大高甲斎の碑

14.(おお)高甲(たかこう)(さい)()()古泉(こいずみ)

(おお)高甲(たかこう)(さい)は、その()兵蔵(へいぞう)、またの()重義(しげよし)といい、文化(ぶんか)元年(がんねん)(1805)、()古泉(こいずみ)中村家(なかむらけ)にて出生(しゅっしょう)幼少(ようしょう)(ころ)より武芸(ぶげい)(この)み、文政(ぶんせい)5(ねん)(1822)、18(さい)(とき)江戸(えど)出て(でて)伊庭軍(いばぐん)兵衛(べえ)心形(しんぎょう)刀流(とうりゅう))、長沼(ながぬま)(しょう)兵衛(べえ)真心(しんしん)陰流(かげりゅう))を()として剣法(けんぽう)修業(しゅぎょう)しました。また、亀山藩(かめやまはん)柘植(つげ)()(したが)い、日置流(ひおきりゅう)弓道(きゅうどう)(きわ)めました。天保(てんぽう)5(ねん)(1834)、郷里(きょうり)()古泉(こいずみ)(かえ)り、道場(どうじょう)(ひら)いて()(てい)指導(しどう)、その門人(もんじん)三百余人(さんびゃくよにん)(かぞ)えました。()いてからも、なお、気力(きりょく)軒昂(けんこう)読書(どくしょ)俳諧(はいかい)にもはげみ、(ひろ)(じん)(ぼう)(あつ)めていたと(つた)えられています。明治(めいじ)19(ねん)(1886)初秋(しょしゅう)、82(さい)(ぼっ)しました。墓石(はかいし)福泉寺(ふくせんじ)本堂(ほんどう)南側(みなみがわ)()てられています。

穴太山多井寺

15.()太山(のうざん)多井寺(おおいでら)()古泉(こいずみ)

()古泉(こいずみ)集落(しゅうらく)中程(なかほど)()太山(のうざん)多井寺(おおいでら)()っています。江戸(えど)中期(ちゅうき)文献(ぶんけん)によると、この(てら)は、中古(ちゅうこ)まで()(のう)(むら)にあったものをこの()(うつ)したのだとされています。本尊(ほんぞん)千手観音(せんじゅかんのん)行基(ぎょうき)(さく)といい、脇壇(わきだん)には、小野篁(おののたかむら)(さく)(つた)えられる延命(えんめい)地蔵(じぞう)安置(あんち)されています。ともに(こう)(にん)年間(ねんかん)(810~)(ちょく)(めい)によって建立(こんりゅう)されたものと(かた)りつたえられています。御詠歌(ごえいか)には、「水底(みなそこ)にやどれる(つき)()()けてかげは多井(おおい)(あかつき)(そら)」とあります。(てら)現在(げんざい)無住(むじゅう)自治会(じちかい)管理(かんり)となっていますが、(むかし)から(つた)わる(ねん)1(かい)開帳(かいちょう)以外(いがい)本尊(ほんぞん)(はい)することはできないことになっています。

瀬古泉の白峯竜神

16.()古泉(こいずみ)(しろ)(みね)龍神(りゅうじん)()古泉(こいずみ)

()古泉(こいずみ)に「土仏(つちほとけ)さん」、「(はく)(りゅう)さん」などと()ばれている(ちい)さなお(どう)があります。(なが)らく()れはてていましたが、昭和(しょうわ)62(ねん)2(がつ)改修(かいしゅう)されました。毎年(まいとし)2(がつ)8(にち)例祭(れいさい)桑名(くわな)土仏山(つちほとけさん)聖衆寺(通称土仏(つうしょうつちほとけ)さん)の住職(じゅうしょく)()()(よう)をします。それには、こんないい(つた)えが(のこ)っています。

「ある(とき)土仏(つちほとけ)さんから()(ろう)(じょ)がきて、むかし(はく)(りゅう)さんが西(にし)(やま)から(なが)れてきてここに()みついたが、(だれ)もおがんでくれぬのでさみしいというてござる。この(はく)(りゅう)さんは当時(とうじ)()えていた(おお)きなエノキの(した)()んでござるといったそうである。ところが、そんなこと迷信(めいしん)だといってエノキの(えだ)をはらった(ひと)不思議(ふしぎ)(ねつ)をだして(くる)しんだ。そこで土仏(つちほとけ)さんにおわびのお(きょう)をあげてもらってやっと全快(ぜんかい)した。」

それ以来(いらい)社殿(しゃでん)改築(かいちく)されて(しろ)(みね)龍神(りゅうじん)(あが)められるようになったといわれています。

薬師如来像の全体

17.薬師(やくし)如来像(にょらいぞう)()(のう)

(さん)()鉄道(てつどう)北勢(ほくせい)(せん)穴太(えき)から徒歩(とほ)5(ふん)(もり)(なか)薬師堂(やくしどう)があります。その本尊(ほんぞん)薬師(やくし)如来像(にょらいぞう)は、(たか)さ2(しゃく)9(すん)5(ぶん)(やく)90センチメートル)、(ひのき)一木造(いちぼくづく)りの座像(ざぞう)で、肩幅(かたはば)(ひろ)くどっしりと(おち)()き、男性的(だんせいてき)(かん)じがします。平安(へいあん)中期(ちゅうき)(じょう)(がん)年間(ねんかん)(859~876)の(さく)といわれています。作者(さくしゃ)こそ不詳(ふしょう)ですが、その古色(こしょく)出来(でき)ばえは、当時(とうじ)有名(ゆうめい)仏師(ぶっし)()によるものと鑑定(かんてい)されています。もとは、その南側(みなみがわ)にあった某寺(ぼうてら)仏像(ぶつぞう)として(まつ)られていたものを、江戸(えど)時代(じだい)この()(うつ)したもので、その(とき)(あたら)しく彩色(さいしょく)されたと(つた)えられています。昭和(しょうわ)32(ねん)10(がつ)10日(とおか)三重県(みえけん)有形(ゆうけい)文化(ぶんか)(ざい)指定(してい)され、()(のう)自治会(じちかい)管理(かんり)しています。

穴太徳(中野徳次郎)の墓

18.()(のう)(とく)中野(なかの)徳次郎(とくじろう))の(はか)()(のう)新田(しんでん)

講談(こうだん)浪曲(ろうきょく)流布(るふ)された荒神山(こうじんやま)高神山(こうじんやま)(ただ)しい)の血闘(けっとう)は、慶応(けいおう)2(ねん)(1866)4(がつ)8(にち)現在(げんざい)鈴鹿市(すずかし)高塚山(たかつかやま)で、賭場(とば)争い(あらそい)から桑名(くわな)神戸屋(こうべや)徳次郎(とくじろう)こと()(のう)(とく)神戸(こうべ)長吉(ちょうきち)本名(ほんみょう)初芝(はつしば)(さい)次郎(じろう))がそれぞれ子分(こぶん)をひきつれて乱闘(らんとう)()(なが)した()(けん)です。結果(けっか)として()(のう)(とく)()けて、それまで()っていた賭場(とば)神戸(こうべ)長吉(ちょうきち)にかえして()びをいれ、一応(いちおう)解決(かいけつ)しました。この(なか)()徳次郎(とくじろう)は、(あそ)(にん)でしたが人情(にんじょう)にあつく()きょう(こころ)もあり地域(ちいき)では信望(しんぼう)がありました。()(のう)(とく)()(のう)()まれ、その生家(せいか)(なが)(のこ)っていましたが(いま)はありません。その(はか)()(のう)新田(しんでん)濃州(のうしゅう)街道(かいどう)にそった(つじ)由男(よしお)()庭先(にわさき)()っています。(つじ)()()(のう)(とく)とは特別(とくべつ)関係(かんけい)はありませんが、()(のう)(とく)(おい)という(ひと)にたのまれてその敷地(しきち)()しただけといわれています。

筑紫にある地蔵

19.筑紫(つくし)地蔵(じぞう)さん筑紫(つくし)

筑紫(つくし)地蔵(じぞう)さんは、中世(ちゅうせい)兵乱(へいらん)(くる)しんだ民衆(みんしゅう)(すく)うために全国(ぜんこく)各地(かくち)(きざ)まれた地蔵(じぞう)(そん)(ひと)つで、もとは筑紫(つくし)字赤野の禅宗(ぜんしゅう)臨済宗派(りんざいしゅうは)禅定寺(ぜんじょうでら)(まつ)られていました。その()禅定寺(ぜんじょうじ)明暦(めいれき)3(ねん)(1657)、四日市(よっかいち)塩浜大字馳(しおはまおおあざはせ)(だし)(うつ)されて現在(げんざい)浄土宗(じょうどしゅう)鎮西派(ちんぜいは)金剛寺(こんごうじ)となっています。その移転(いてん)理由(りゆう)はわかりませんが、移転(いてん)(とき)木造(もくぞう)地蔵(じぞう)(そん)筑紫(つくし)(のこ)していったので、村民(そんみん)はこれを大切(たいせつ)(まも)ってきました。ところが、この地蔵(じぞう)さんのお()りをしていた「おきしさん」という老女(ろうじょ)(いえ)()け、また、おきしさん自身(じしん)老齢(ろうれい)となり、やがて()くなったため(たね)村長(むらちょう)太夫(だゆう)という(ひと)内仏(うちほとけ)として(まつ)っていました。この地蔵(じぞう)さんは昭和(しょうわ)44(どし)8(がつ)24(にち)筑紫区(つくしく)によって(あたら)しい(どう)(うつ)されて(いま)(おお)くの信仰(しんこう)(あつ)めています。

筑紫の大連の碑の様子

20.筑紫(つくし)大連(おおむらじ)()筑紫(つくし)

続員弁(ぞくいなべ)雑誌(ざっし)』に、大字(おおあざ)筑紫(つくし)(あざ)(はやし)(そう)生地(うち)に3()ばかりの大字(おおあざ)所有地(しょゆうち)があり、そこに「筑紫連(つくしむらじ)(はか)」と(おもて)()き、裏に「明治(めいじ)23(ねん)大字(おおあざ)によって()つ」としるされた石碑(せきひ)があります。そして、このあたりから鉄器(てっき)土器(どき)発見(はっけん)されましたが、(わる)いたたりがあると(おそ)れた土地(とち)(ひと)たちは土中(どちゅう)(ふか)()めたと(つた)えられています。現在(げんざい)の「筑紫(つくし)大連(おおむらじ)」の()昭和(しょうわ)3(ねん)御大典(ごたいてん)記念(きねん)として大字(おおあざ)筑紫区(つくしく)により()てられたものです。

藤谷万次郎先生之碑

21.藤谷(ふじたに)(まん)次郎先生之(じろうせんせいの)()中上(なかがみ)

藤谷(ふじたに)(まん)次郎(じろう)は、中上(なかがみ)庄屋(しょうや)藤谷伝(ふじたにでん)()衛門(えもん)正義(まさよし)二男(じなん)()れ、幼き(おさなき)(ころ)より(がく)(この)(さん)(すう)ことに珠算(しゅざん)(ちょう)じていました。珠算(しゅざん)(じゅく)(ひら)いて、(むら)若者(わかもの)(おし)えていました。(おし)えを()けた(せい)()(たち)は、中上(なかがみ)中央(ちゅうおう)(なが)れる、(うめ)(はな)(かお)()()()(がわ)堤防(ていぼう)のたもとに、(へん)崇寺(すうじ)学僧(がくそう)花山(はなやま)大安師(だいあんし)碑文(ひぶん)()いてもらい、(まん)次郎(じろう)先生(せんせい)(とく)をたたえて()()てました。この碑文(ひぶん)によると、藤谷(ふじたに)(まん)次郎(じろう)(おう)(じゅく)(いり)(ぐち)に「(びん)速算舎(そくざんしゃ)」という()(ふだ)をかかげて三十余年(さんじゅうよねん)にわたり熱心(ねっしん)珠算(しゅざん)(おし)え、その弟子(でし)(かず)一千人(いっせんにん)をこえました。(じゅく)のそばを(とお)ると、そろばんをはじく(おと)大雨(だいあめ)()るような(おと)をたて(みち)()(ひと)(おどろ)かせたといいます。()()てられたのは大正(たいしょう)7(ねん)(1918)3(がつ)でした。()(えい)6(ねん)(1853)1(がつ)18(にち)()まれで大正(たいしょう)9(ねん)(1920)9(がつ)20(にち)67(さい)(ぼっ)しました。

多奈閇神社の鳥居

22.多奈閇(たなべ)神社(じんじゃ)中上(なかがみ)

(ふる)くから(勧請(かんじょう)(ねん)不詳(ふしょう)天日(あまのひ)(わしの)(みこと)(しゅ)(しん)とし、天之児(あめのこ)屋根(やねの)(みこと)品陀(ほむた)和気(わけの)(みこと)誉田(ほむた)別名(わけのみこと))を合祀(ごうし)しています。延喜式(えんぎしき)神名帳(しんめいちょう)には員弁郡(いなべぐん)十座(じゅうざ)(うち)多奈閇(たなべ)神社(じんじゃ)として(しる)されています。その(ほか)(せい)氏録(しろく)などの古文書(こもんじょ)にもその()があることから由緒(ゆいしょ)(ふか)い「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」です。もと、中上村(なかがみむら)産土(うぶすな)(かみ)は、社殿(しゃでん)はもと(みなみ)()きでしたが、社殿(しゃでん)()てかえた(とき)東向(ひがしむ)きとし、旧拝殿(きゅうはいでん)祭具(さいぐ)()れに(あらた)めました。神霊(しんれい)男女(だんじょ)古木像(こもくぞう)2(たい)束帯(そくたい)(ぞう)2(たい)です。(むな)(ふだ)に「(ほう)造立(ぞうりゅう)田辺(たなべ)大明神(だいみょうじん)拝殿(はいでん)氏子中(うじこちゅう)延享(えんきょう)二歳(にさい)8(がつ)吉日(きちじつ)」とあります。大明神号(だいみょうじんごう)(しょう)して中上村(なかがみむら)五村(ごそん)惣社(そうじゃ)でしたが明治(めいじ)40(ねん)(1907)11(がつ)11(にち)村内(そんない)小社(しょうしゃ)合祀(ごうし)し43(ねん)久米(くめ)神社(じんじゃ)(あらた)めました。

新野遺跡の様子

23.新野(あらの)遺跡(いせき)

員弁(いなべ)(がわ)南岸(なんがん)にある遺跡(いせき)(ひと)つ。古墳(こふん)時代(じだい)奈良(なら)時代(じだい)にかけての遺跡(いせき)(にっ)(とう)タイヤ(たいや)株式会社(かぶしきがいしゃ)(げん)TOYOTIRE株式会社(かぶしきがいしゃ))の工場(こうじょう)進出(しんしゅつ)(ともな)い、昭和(しょうわ)45(ねん)~46(ねん)三重県(みえけん)教育(きょういく)委員会(いいんかい)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)実施(じっし)し、調査(ちょうさ)結果(けっか)多数(たすう)竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)(あと)(ほっ)立柱(たて)建物(たてもの)(あと)検出(けんしゅつ)しました。西山(にしやま)遺跡(いせき)は7世紀中(せいきなか)(ごろ)古代(こだい)村落(そんらく)(あと)であることがわかりました。(とく)鍛冶(かじ)専業(せんぎょう)とした村落(そんらく)ともいえます。新野(あらの)遺跡(いせき)古代(こだい)村落(そんらく)(あと)です。なお、西山(にしやま)新野(あらの)遺跡(いせき)須恵器(すえき)(とう)出土(しゅつど)遺物(いぶつ)三重県(みえけん)教育(きょういく)委員会(いいんかい)保管(ほかん)しています。

西山遺跡の様子

 24.西山(にしやま)遺跡(いせき)中上(なかがみ)

員弁(いなべ)(がわ)南岸(なんがん)にある遺跡(いせき)(ひと)つ。古墳(こふん)時代(じだい)奈良(なら)時代(じだい)にかけての遺跡(いせき)(にっ)(とう)タイヤ(たいや)株式会社(かぶしきがいしゃ)(げん)TOYOTIRE株式会社(かぶしきがいしゃ))の工場(こうじょう)進出(しんしゅつ)(ともな)い、昭和(しょうわ)45(ねん)~46(ねん)三重県(みえけん)教育(きょういく)委員会(いいんかい)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)実施(じっし)し、調査(ちょうさ)結果(けっか)多数(たすう)竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)(あと)(ほっ)立柱(たて)建物(たてもの)(あと)検出(けんしゅつ)しました。西山(にしやま)遺跡(いせき)は7世紀中(せいきなか)(ごろ)古代(こだい)村落(そんらく)(あと)であることがわかりました。(とく)鍛冶(かじ)専業(せんぎょう)とした村落(そんらく)ともいえます。新野(あらの)遺跡(いせき)古代(こだい)村落(そんらく)(あと)です。なお、西山(にしやま)新野(あらの)遺跡(いせき)須恵器(すえき)(とう)出土(しゅつど)遺物(いぶつ)三重県(みえけん)教育(きょういく)委員会(いいんかい)保管(ほかん)しています。

中上城址の現在

25.中上(なかがみ)城址(じょうあと)中上(なかがみ)

中世(ちゅうせい)城館(じょうかん)(ひと)つ。(はな)()(じょう)ともいいます。TOYOTIRE株式(かぶしき)会社(がいしゃ)(くわ)名工場(なこうじょう)(きた)()狐子(こじ)(がわ)北面(ほくめん)する(だい)地上(ちじょう)位置(いち)します。東西(とうざい)160m×南北(なんぼく)60mの規模(きぼ)(ゆう)します。現在(げんざい)何本(なんぼん)もの土塁(どるい)(のこ)っています。『員弁(いなべ)雑誌(ざっし)』によると、明応(めいおう)年間(ねんかん)(1492~1590)、(ばん)太郎(たろう)()衛門(えもん)坂兵(ばんべえ)()衛門(えもん)とも、(さか)中務(なかつかさ)ともいう)が建城(けんじょう)したといいます。(はい)(じょう)時期(じき)不明(ふめい)です。なお城主(じょうしゅ)坂家(ばんけ)敗戦(はいせん)(あと)仏門(ぶつもん)(はい)り、蓮如(れんにょう)上人(しょうにん)帰依(きえ)し、中上(なかがみ)(てら)()て、花戸山遍(はなとざんへん)崇寺(そうじ)として現在(げんざい)まで(つづ)いています。

影清松の様子

26.(かげ)(きよ)(まつ)長深(ながふけ)

長深(ながふけ)(あざ)(はな)()大松(おおまつ)があり、樹齢(じゅれい)(およ)そ530(ねん)古木(こぼく)と『続員弁(ぞくいなべ)雑誌(ざっし)』に(しる)されています。(かげ)(きよ)(まつ)とは、寿(じゅ)(えい)4(ねん)(1185)、平家(へいけ)(ほろ)びた()にその一門(いちもん)武勇(ぶゆう)にすぐれた上総七郎兵衛景(かずさしちろうべえかげ)(きよ)元久米村(もとくめむら)志知(しち)()ちのびてきて、志知(しち)(うつ)()んでいたとも(つた)えられています。その()(かげ)(きよ)長深(ながふけ)にも(うつ)()みました。(かげ)(きよ)屋敷(やしき)志知(しち)にありますが、(かげ)(きよ)(まつ)長深(ながふけ)(はな)()にあり、一名(いちめい)天狗(てんぐ)(まつ)ともいわれ、(かげ)(きよ)()えた(まつ)だとも、(かげ)(きよ)(はか)(だれ)かが()えた(まつ)だとも(つた)えられています。昭和(しょうわ)2(ねん)10(がつ)6(にち)には天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)として指定(してい)され()()てられました。その()現在(げんざい)長深(ながふけ)公民館(こうみんかん)(うつ)されています。

瑞応寺の参道

27.瑞応寺(ずいおうじ)第一(だいいっ)(せい)実性(じっしょう)(けい)川和(せんお)(しょう))の(ぞう)長深(ながふけ)

瑞応寺(ずいおうじ)臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)(ぞく)し、千手観音(せんじゅかんのん)菩薩(ぼさつ)本尊(ほんぞん)としています。妙心寺(みょうしんじ)第十(だいじゅっ)(せい)実性(じっしょう)禅師(ぜんじ)文明(ぶんめい)年間(ねんかん)(1469~1486)に開基(かいき)したと(つた)えられています。長深(ながふけ)城主(じょうしゅ)冨永(とみなが)()菩提所(ぼだいしょ)で、長深(ながふけ)(じょう)第二代目(だいにだいめ)城主(じょうしゅ)(とみ)(つな)中上村(なかがみむら)()春院(しゅんいん)()てましたが、三代目(さんだいめ)(とみ)(てる)妙心寺(みょうしんじ)から実性(じっしょう)禅師(ぜんじ)(むか)えて、()春院(しゅんいん)をこの()移し(うつし)慈恩山瑞応(じおんざんずいおう)(てら)としました。その()実性(じっしょう)妙心寺(みょうしんじ)(かえ)り、妙心寺(みょうしんじ)第十五世(だいじゅうごせい)(しょう)(がく)がその(あと)()いでいます。ところが、(てん)(しょう)2(ねん)(1574)、長深(ながふけ)城主(じょうしゅ)四世(よんせい)冨永(とみなが)(とみ)(とも)(だい)になって、織田(おだ)信長(のぶなが)武将(ぶしょう)瀧川一益(たきがわかずます)()められ、尾張(おわり)(くに)()げたため、城塞(じょうさい)(とも)広大(こうだい)寺院(じいん)()かれ、大勢(おおぜい)いた(そう)分散(ぶんさん)しましたが、(まん)()3(ねん)(1660)、(そう)(かつ)によって再興(さいこう)されました。第一(だいいっ)(せい)実性(じっしょう)肖像(しょうぞう)(のこ)っていて、三重県(みえけん)有形(ゆうけい)文化(ぶんか)(ざい)指定(してい)されています。

鳥羽海の墓(東守)

28.鳥羽(とばの)(うみ)(はか)長深(ながふけ)東守(ひがしもり))》

長深(ながふけ)には、鳥羽(とばの)(うみ)という力士(りきし)(はか)東守(ひがしもり)北守(きたもり)二ヵ所(にかしょ)にあります。その(ころ)江戸(えど)相撲(すもう)大阪(おおさか)相撲(すもう)にわかれていたが鳥羽(とばの)(うみ)文政(ぶんせい)8(ねん)(1825)9(がつ)大阪(おおさか)相撲(すもう)で「西(にし)小結(こむすび)」として出場(しゅつじょう)していました。(また)相撲(すもう)博物館(はくぶつかん)調査(ちょうさ)では、文化(ぶんか)14(ねん)(1817)5(がつ)入門(にゅうもん)し、「(ひがし)二段目(ふただんめ)八七(はちじゅうなな)」に番付(ばんづけ)され、鳥羽(とばの)海基(うみじんかい)(かい)名乗(なの)っていましたが文政(ぶんせい)5(ねん)(1822)6(がつ)には「(ひがし)二段目(にだんめ)十一番(じゅういちばん)」に昇進(しょうしん)し、「鳥羽海仙(とばのうみせん)()」と改名(かいめい)し、文政(ぶんせい)12(ねん)(1829)に伊勢(いせ)(ぼっ)したとなっています。門弟(もんてい)()(えい)元年(がんねん)(1848)9(がつ)19(にち)にその(はか)建て(たて)鳥羽(とばの)(うみ)偉業(いぎょう)をたたえ、その(れい)をとむらったものが東守(ひがしもり)にある鳥羽(とばの)(うみ)(はか)です。北守(きたもり)(はか)は、文政(ぶんせい)12(ねん)(1829)にこれも門弟(もんてい)()てたと(しる)されています。鳥羽(とば)(うみの)四股名(しこな)は、伊勢(いせ)(こく)出身(しゅっしん)力士(りきし)(あいだ)において何度(なんど)襲名(しゅうめい)されたのではないでしょうか。

鳥羽海の墓(北守)

29.鳥羽(とばの)(うみ)(はか)長深(ながふけ)北守(きたもり))》

長深(ながふけ)には、鳥羽(とばの)(うみ)という力士(りきし)(はか)東守(ひがしもり)北守(きたもり)二ヵ所(にかしょ)にあります。その(ころ)江戸(えど)相撲(すもう)大阪(おおさか)相撲(すもう)にわかれていたが鳥羽(とばの)(うみ)文政(ぶんせい)8(ねん)(1825)9(がつ)大阪(おおさか)相撲(すもう)で「西(にし)小結(こむすび)」として出場(しゅつじょう)していました。(また)相撲(すもう)博物館(はくぶつかん)調査(ちょうさ)では、文化(ぶんか)14(ねん)(1817)5(がつ)入門(にゅうもん)し、「(ひがし)二段目(ふただんめ)八七(はちじゅうなな)」に番付(ばんづけ)され、鳥羽(とばの)海基(うみじんかい)(かい)名乗(なの)っていましたが文政(ぶんせい)5(ねん)(1822)6(がつ)には「(ひがし)二段目(にだんめ)十一番(じゅういちばん)」に昇進(しょうしん)し、「鳥羽海仙(とばのうみせん)()」と改名(かいめい)し、文政(ぶんせい)12(ねん)(1829)に伊勢(いせ)(ぼっ)したとなっています。門弟(もんてい)()(えい)元年(がんねん)(1848)9(がつ)19(にち)にその(はか)建て(たて)鳥羽(とばの)(うみ)偉業(いぎょう)をたたえ、その(れい)をとむらったものが東守(ひがしもり)にある鳥羽(とばの)(うみ)(はか)です。北守(きたもり)(はか)は、文政(ぶんせい)12(ねん)(1829)にこれも門弟(もんてい)()てたと(しる)されています。鳥羽(とば)(うみの)四股名(しこな)は、伊勢(いせ)(こく)出身(しゅっしん)力士(りきし)(あいだ)において何度(なんど)襲名(しゅうめい)されたのではないでしょうか。

長深城址の石碑

30.長深(ながふけ)城址(じょうあと)長深(ながふけ)

中世(ちゅうせい)城館(じょうかん)(ひと)つ。善正寺(ぜんしょうじ)境内(けいだい)がそれです。東西(とうざい)88m×南北(なんぼく)75mの規模(きぼ)(ゆう)します。現在(げんざい)土塁(どるい)(のこ)り、(だん)もあり、本丸(ほんまる)二之丸(にのまる)区画(くかく)推定(すいてい)されています。『員弁(いなべ)雑誌(ざっし)』によると、暦応(りゃくおう)年間(ねんかん)(1338~1348)、冨永(とみなが)筑後(ちくごの)(かみ)(とみ)(はる)築城(ちくじょう)し、その()(とみ)(つぐ)(とみ)(てる)(とみ)(とも)、と()ぎましたが、(えい)(ろく)11(ねん)(1568)に織田(おだ)信長勢(のぶながぜい)夜討(ようち)により(ほろ)ぼされました。城主(じょうしゅ)一族(いちぞく)が、城址(しろあと)冨永山(ふえいざん)善正寺(ぜんしょうじ)(てん)(しょう)9(ねん)(1581)に創設(そうせつ)し、現在(げんざい)まで(つづ)いています。

三月堂の外観

31.三月堂(さんがつどう)長深(ながふけ)

長深(ながふけ)(きた)一色(いっしき)江戸期(えどき)以前(いぜん)酒屋(さかや)(とく)()ヱ門(えもん)という(ひと)()んでいて、お(どう)()て、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)安置(あんち)し、毎年(まいとし)3(がつ)18(にち)()(きょう)供養(くよう)していました。(とし)がたって酒屋(さかや)(とく)()ヱ門(えもん)死去(しきょ)して、その(こころざし)()(もの)がなくなりました。そのためお(どう)()れるにまかせていたので本尊(ほんぞん)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)瑞應寺(ずいおうじ)(あず)けられました。その()兵乱(へいらん)があり瑞應寺(ずいおうじ)()かれ、観音像(かんのんぞう)もどうなったか人々(ひとびと)(わす)れられていました。文政(ぶんせい)3(ねん)(1820)2(がつ)18(にち)城下(しろした)桑名(くわな))より、伊藤宗(いとうそう)兵衛(べえ)という(ひと)長深(ながふけ)()て、長嶋(ながしま)長左(ちょうざ)ヱ門(えもん)という漁師(りょうし)(あみ)にかかった観音像(かんのんぞう)が、長深(ながふけ)(かえ)りたいといわれるから、ぜひこの(むら)(まつ)ってほしいといわれました。この(はなし)感激(かんげき)した村人(むらびと)たちはこの観音像(かんのんぞう)三月堂(さんがつどう)(まつ)代々(だいだい)尊崇(そんすう)してきたと(つた)えられています。

船連之碑の全景

32.船連之(ふなむらじの)()長深(ながふけ)

長深(ながふけ)(あざ)生木(なるき)というところに4(つぼ)(13平方メートル)ばかりの古墳(こふん)がありました。明治(めいじ)8(ねん)(1875)に村人(むらびと)()(かえ)してみると、金環(きんかん)土器(どき)などが()てきました。(ちか)くには、船山(ふなやま)とか(ふね)(づか)という()(のこ)っています。「(しょう)氏録(しろく)」には「船連(ふなむらじ)」という()もあるため、あるいはこの(ひと)(はか)ではないかとされています。大正(たいしょう)(はじ)耕地(こうち)整理(せいり)のときにも土器類(どきるい)()たので大正(たいしょう)3(ねん)(1914)広田庄(ひろたしょう)太郎(たろう)(いま)(ところ)(うつ)して「舟連(ふなむらじ)(はか)」と(いし)(きざ)(まつ)っていました。「船連(ふなむらじ)」は造船(ぞうせん)海運(かいうん)などをつかさどる豪族(ごうぞく)(おも)われます。昭和(しょうわ)62(ねん)広田庄(ひろたしょう)太郎(たろう)長男(ちょうなん)(まさ)次郎(じろう)()名古屋市(なごやし)在住(ざいじゅう))が(ちち)(こころざし)()ぎ、(あたら)しい「船連之(ふなむらじの)(はか)」が建立(こんりゅう)されました。

一色正芳の碑の様子

33.一色(いっしき)正芳(しょうほう)()(みなみ)大社(おやしろ)

一色(いっしき)正芳(しょうほう)は、和算(わさん)権威者(けんいしゃ)延享(えんきょう)4(ねん)(1747)伊勢(いせ)(こく)員弁郡(いなべぐん)(みなみ)大社(おやしろ)(ごう)庄屋(しょうや)清水(しみず)(ふじ)()衛門(えもん)正親(まさちか)八男(はちなん)()まれ、幼名(ようみょう)(はっ)太郎(たろう)()びました。通称(つうしょう)太郎(たろ)兵衛(べえ)といい、13(さい)(とき)同じ(おなじ)(むら)()(せい)庄屋(しょうや)一色(いっしょく)(ただし)()ヱ門(えもん)(むすめ)タノと結婚(けっこん)養子(ようし)となりました。そのため改姓(かいせい)して一色(いっしき)太郎(たろ)兵衛(べえ)(ひろ)(たか)名乗(なの)り、(のち)庄屋(しょうや)(しょく)()(いみな)正芳(しょうほう)といいました。独特(どくとく)珠算(しゅざん)として「正芳流(しょうほうりゅう)百日算(ひゃくにちざん)」を創始(そうし)し、その門下生(もんかせい)七百人(ななひゃくにん)にも(およ)んだといわれています。それらの門下生(もんかせい)はそれぞれ各地(かくち)へもどってこの百日算(ひゃくにちざん)(ひろ)めていったので「正芳流(しょうほうりゅう)百日算(ひゃくにちざん)」はますます発展(はってん)していきました。このほか正芳(しょうほう)地域(ちいき)開発(かいはつ)道路(どうろ)改修(かいしゅう)産業(さんぎょう)発展(はってん)にも尽力(じんりょく)しました。文政(ぶんせい)4(ねん)(1821)5(がつ)8(にち)74(さい)(ぼっ)し、その(はか)(みなみ)大社(おやしろ)共同(きょうどう)墓地(ぼち)清水家(しみずけ)(なら)んで()てられています。

村前遺跡の空撮

34.村前(むらまえ)遺跡(いせき)()古泉(こいずみ)

村前(むらまえ)遺跡(いせき)は、エバ工業(こうぎょう)株式(かぶしき)会社(がいしゃ)工場(こうじょう)進出(しんしゅつ)(ともな)い、平成(へいせい)4年度(ねんど)(ちょう)教育(きょういく)委員会(いいんかい)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)実施(じっし)調査(ちょうさ)結果(けっか)縄文(じょうもん)時代(じだい)古墳(こふん)時代(じだい)平安(へいあん)時代(じだい)の3つの時代(じだい)集落(しゅうらく)をつくっていたことがわかりました。縄文(じょうもん)のころの野外(やがい)()竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)古墳(こふん)のころの竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)平安(へいあん)のころの(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)検出(けんしゅつ)しています。また、3つの時代(じだい)()んでいた人々(ひとびと)使(つか)っていた土器(どき)石器(せっき)土師器(はじき)須恵器(すえき)灰釉(かいゆう)陶器(とうき)緑釉(りょくゆう)陶器(とうき)多数(たすう)出土(しゅつど)し、遺物(いぶつ)東員町(とういんちょう)郷土(きょうど)資料館(しりょうかん)展示(てんじ)しています。

山田三段溜の空撮

35.山田溜(やまだだめ)山田(やまだ)

江戸(えど)時代(じだい)中期(ちゅうき)桑名(くわな)藩主(はんしゅ)のすすめで、この()開墾(かいこん)(すす)められましたが、水源(すいげん)がないため山田溜(やまだだめ)築堤(ちくてい)されました。灌漑(かんがい)面積(めんせき)9haの農業用溜(のうぎょうようため)(いけ)で、通称三段溜(つうしょうさんだんだめ)といい、周囲(しゅうい)自然(しぜん)(りん)(のこ)水鳥(みずとり)飛来(ひらい)する水辺(みずべ)(ひろ)がっています。平成(へいせい)7(とし)集落(しゅうらく)水辺(みずべ)環境(かんきょう)整備(せいび)事業(じぎょう)として、(ため)周辺(しゅうへん)緑地(りょくち)自然(しぜん)公園(こうえん)として整備(せいび)されました。江戸(えど)時代(じだい)から()()がれてきた、ひとつの文化(ぶんか)として(まち)財産(ざいさん)としての景観(けいかん)(ひろ)がっています。

白草稲荷神社の全景

36.(しら)(くさ)稲荷(いなり)神社(じんじゃ)北山田(きたやまだ)

(しゅ)(しん)稲荷社(いなりしゃ)宇迦之(うかの)御魂(みたまの)(みこと)(やま)神社(じんじゃ)大山祇社(おおやまづみしゃ)伏見(ふしみ)稲荷(いなり)神社(じんじゃ)です。由来(ゆらい)明和(めいわ)年間(ねんかん)(1764~1772)の初期(しょき)北山田(きたやまだ)(うつ)()んだ人々(ひとびと)が、開運(かいうん)火事(かじ)流行病(りゅうこうびょう)()さないと(かみ)のお()げがあったとの由来(ゆらい)から信仰(しんこう)(まつ)ったと(つた)えられています。

御厨神明社の全景

37.御厨(みくり)神明社(しんめいしゃ)(ろっ)()()獅子舞(ししまい)(ろっ)()()新田(しんでん)

寛永(かんえい)14(ねん)(1637)2(がつ)(ろっ)()()()(すい)(ひら)こうとして(こう)大神宮(だいじんぐう)祈願(きがん)しこの()氏神(うじがみ)として奉鎮(ほうちん)しました。明治(めいじ)39(ねん)合祀(ごうし)勅令(ちょくれい)(けん)合祀(ごうし)訓令(くんれい)により明治(めいじ)40(ねん)11(がつ)各地(かくち)鎮座(ちんざ)した八幡社(はちまんしゃ)(いち)神社(じんじゃ)山ノ神(やまのかみ)火産(ほむす)霊社(びしゃ)奉祀(ほうし)して(ろっ)()()御厨(みくり)神明社(しんめいしゃ)(とな)(まつ)られました。

道標「香取道」の画像

39.道標(みちしるべ)香取(かとり)(みち)(ろっ)()()新田(しんでん)

香取(かとり)(みち)は、(ろっ)()()新田(しんでん)地蔵堂(じぞうどう)東側(ひがしがわ)から大仲(おおなか)新田(しんでん)(とお)嘉例(かれい)(がわ)()多度(たど)(つう)じている(みち)で、(むかし)(さん)四尺(よんしゃく)(せま)(どう)でありましたが多度(たど)(まつり)のときには(おお)くの参拝客(さんぱいきゃく)でにぎわいました。濃州(のうしゅう)街道(かいどう)からこの香取(かとり)(みち)へわかれる(かど)(ふる)道標(みちしるべ)があります。

福塚古墳の現況

39.(ふく)(づか)古墳(こふん)(ろっ)()()新田(しんでん)

被葬者(ひそうしゃ)は、不詳(ふしょう)です。(おお)きさ(やく)(ふた)(つぼ)三尺(さんじゃく)(たか)さで、一面(いちめん)雑草(ざっそう)のなかに一本(いっぽん)()生育(せいいく)しています。一説(いっせつ)には奥州(おうしゅう)南部藩(なんぶはん)(なん)部長(ぶちょう)()衛門(えもん)がこの()開拓(かいたく)した(さい)故郷(ふるさと)源氏(みなもとし)()(しん)氏神(うじがみ)八幡社(はちまんしゃ)(まつ)った(あと)といわれています。八幡社(はちまんしゃ)一時(いちじ)150mほど北側(きたがわ)(うつ)されましたが、明治(めいじ)39(ねん)合祀令(ごうしれい)のとき(ろっ)()()御厨(みくり)神明社(しんめいしゃ)合祀(ごうし)されました。

六把野道場の外観

40.(ろっ)()野道場(のどうじょう)(ろっ)()()新田(しんでん)

江戸(えど)中期(ちゅうき)阿弥陀仏(あみだぶつ)安置(あんち)して建立(こんりゅう)されました。その()大木(おおき)明法寺(みょうほうじ)説教場(せっきょうば)となり、現在(げんざい)(おも)に、(ろっ)()()新田(しんでん)自治会(じちかい)仏事(ぶつじ)行事(ぎょうじ)(しゅう)会所(かいじょ)として使用(しよう)されています。

神田小学校跡の全景

41.神田(かんだ)小学校(しょうがっこう)(あと)(ろっ)()()新田(しんでん)

明治(めいじ)34(ねん)に、()(のう)弘道(ひろみち)鳥取(とっとり)(よう)()両校(りょうこう)合併(がっぺい)して神田(かんだ)尋常(じんじょう)高等(こうとう)小学校(しょうがっこう)創立(そうりつ)しました。その()昭和(しょうわ)48(ねん)神田(かんだ)小学校(しょうがっこう)移転後(いてんご)神田(かんだ)公園(こうえん)として整備(せいび)されました。

顔なし地蔵の全景

42.(かお)なし地蔵(じぞう)(ろっ)()()新田(しんでん)

病気(びょうき)(ひと)自分(じぶん)()(みみ)(はな)(くち)などを(あた)えて(なお)したので「(かお)なし地蔵(じぞう)」と()われています。(もと)はここから、(きた)150mの(やま)(かみ)新宮(しんぐう))にありましたが、明治(めいじ)39(ねん)(1906)の合祀令(ごうしれい)(さい)(やま)(かみ)廃宮(はいぐう)された()この場所(ばしょ)(うつ)されました。

青木駿河守の墳墓

43.青木(あおき)駿河(するがの)(かみ)()鳥取(とっとり)

駿河(するがの)(かみ)平安(たいらのやす)(とよ)遺骸(いがい)()めた(あと)といわれています。(ひろ)(やく)(さん)(つぼ)中央(ちゅうおう)には(むかし)老樹(ろうじゅ)一本(いっぽん)ありましたが(いま)はありません。昭和(しょうわ)52(ねん)笹尾(ささお)城主(じょうしゅ)青木(あおき)駿河(するがの)(かみ)平安(たいらのやす)豊之塚(とよのつか)」を()て、その(うら)には「(てん)正元年(しょうがんねん)九月(くがつ)二十六日(にじゅうろくにち)織田(おだ)兵火(へいか)三百坊(さんびゃくぼう)はことごとく焼失(しょうしつ)し、笹尾(ささお)(じょう)落城(らくじょう)して城主(じょうしゅ)駿河(するがの)(かみ)此所(ししょ)自決(じけつ)せり」と刻まれています。

八幡神社の鳥居

44.八幡(はちまん)神社(じんじゃ)八幡(はちまん)新田(しんでん)

誉田(ほんだ)別命(わけのみこと)(しゅ)(しん)とし、明治(めいじ)41(ねん)4(がつ)24(にち)()岐波社(きわしゃ)火産(ひさん)霊社(れいしゃ)(やま)神社(じんじゃ)神明社(しんめいしゃ)合祀(ごうし)しています。『員弁(いなべ)雑誌(ざっし)』には「当新田(とうしんでん)元来大木村(がんらいおおきむら)()地内(ちない)デアッタガ、新田開発(しんでんかいはつ)時大木村(じおおきむら)産土(うぶすな)(かみ)八幡宮(はちまんぐう)鎮座(ちんざ)近辺(きんぺん)ニアル()八幡(はちまん)新田(しんでん)(しょう)大木村(おおきむら)ヨリ分立(ぶんりつ)大木村(おおきむら)八幡宮(はちまんぐう)中古(ちゅうこ)勧請(かんじょう)シタモノデアル」と(しる)されています。

大木神社の鳥居

45.大木(おおき)神社(じんじゃ)大木(おおき)

誉田(ほんだ)別命(わけのみこと)(しゅ)(しん)とし、明治(めいじ)41(ねん)8(がつ)8日(ようか)熊野社(くまのしゃ)若宮社(わかみやしゃ)天王社(てんのうやしろ)赤口社(しゃっこうしゃ)(やま)神社(じんじゃ)神明社(しんめいしゃ)合祀(ごうし)し、(むかし)(あざ)大鳥居前(おおどりいまえ)鎮座(ちんざ)し、八幡(はちまん)神社(じんじゃ)といいました。(てん)(しょう)兵火(へいか)により焼失(しょうしつ)して勧請(かんじょう)されましたが、年月(ねんげつ)不明(ふめい)です。

薬師堂の全景

46.薬師堂(やくしどう)(きた)大社(おやしろ)

薬師(やくし)如来(にょらい)は、北山田村(きたやまだむら)にあった三百坊(さんびゃくぼう)(ゆう)する員弁寺(いなべでら)大徳法(だいとくほう)(じゅう)上人(しょうにん)(さく)で、同寺(どうてら)安置(あんち)されていました。北大社村(きたおやしろむら)篤信家(とくしんか)早川(はやかわ)(ちゅう)()衛門(えもん)薬師(やくし)如来(にょらい)のお()げで早川家(はやかわけ)(まつ)られました。その()台風(たいふう)によるお(どう)破壊(はかい)など数回(すうかい)移転(いてん)()現在(げんざい)場所(ばしょ)安置(あんち)されています。また、1000(ねん)(ほど)(むかし)より「えんまさん」の(はなし)(きた)大社(おやしろ)(つた)わっています。その閻魔堂(えんまどう)薬師堂(やくしどう)(なら)んで()っています。

旧郡役所の現況

47.旧郡(きゅうぐん)役所(やくしょ)(みなみ)大社(おやしろ)

明治(めいじ)11(ねん)(1878)の郡区(ぐんく)町村編(ちょうそんへん)制法(せいほう)により、員弁郡(いなべぐん)発足(ほっそく)しました。旧員弁郡(きゅういなべぐん)役所(やくしょ)明治(めいじ)12(ねん)(1879)にこの()()かれました。明治(めいじ)16(ねん)(1883)に楚原村(そはらむら)(うつ)り、大正(たいしょう)15(ねん)まで(つづ)いた郡内(ぐんない)最初(さいしょ)役所(やくしょ)です。

旧東員郵便局の現状

48.旧東員(きゅうとういん)郵便局(ゆうびんきょく)(みなみ)大社(おやしろ)

明治(めいじ)7(ねん)(1874)(みなみ)大社(おやしろ)四等(よんとう)郵便(ゆうびん)取扱所(とりあつかいじょ)開設(かいせつ)され、清水伝(しみずでん)右衛門(えもん)所長(しょちょう)として郵便(ゆうびん)業務(ぎょうむ)郵便(ゆうびん)集配(しゅうはい)(はじ)められました。明治(めいじ)19(ねん)(1886)に(みなみ)大社(おやしろ)郵便局(ゆうびんきょく)改め(あらため)明治(めいじ)42(ねん)大長(おおなが)郵便局(ゆうびんきょく)となりました。昭和(しょうわ)30(ねん)東員(とういん)郵便局(ゆうびんきょく)改称(かいしょう)し、現在(げんざい)局舎(きょくしゃ)開局(かいきょく)する昭和(しょうわ)49(ねん)まで使(つか)われました。

念仏橋・念仏小橋の全景

49.念仏(ねんぶつ)(はし)念仏(ねんぶつ)小橋(こばし)中上(なかがみ)

明治(めいじ)37(ねん)員弁(いなべ)(がわ)をはさんで南北(なんぼく)地区(ちく)にある寺院(じいん)への参詣(さんけい)便(べん)(はか)るため、各寺院(かくじいん)法座(ほうざ)ごとに寄付(きふ)(きん)をつのり、(かわ)()費用(ひよう)(すく)なく管理(かんり)しやすい板橋(いたばし)がかけられました。その()水害(すいがい)火災(かさい)による流出(りゅうしゅつ)損壊(そんかい)()昭和(しょうわ)39(ねん)復旧(ふっきゅう)()に「東員(とういん)大橋(おおはし)東員(とういん)小橋(こばし)」と改名(かいめい)されましたが、現在(げんざい)地元(じもと)人々(ひとびと)のこの(はし)()せる(おも)いと尽力(じんりょく)により「念仏(ねんぶつ)大橋(おおはし)念仏(ねんぶつ)小橋(こばし)」の名前(なまえ)復活(ふっかつ)しました。

六把野古井水の現状

50.(ろっ)()()古井(こい)(すい)八幡(はちまん)新田(しんでん)

員弁(いなべ)(がわ)より(たか)(まち)北部(ほくぶ)は、江戸(えど)時代(じだい)において稲作(いなさく)(むずか)しく、農業(のうぎょう)用水(ようすい)必要(ひつよう)とする人々(ひとびと)(ねが)いをうけ、()生田(うだ)(いなべ()北勢町(ほくせいちょう)万笑院(まんしょういん)(ぶん)()大和尚(だいわじょう)より初代(しょだい)桑名(くわな)城主(じょうしゅ)本田(ほんだ)(ただ)(かつ)(こう)懇願(こんがん)(ただ)(かつ)(こう)(めい)により着工(ちゃっこう)し、麻生田(おうだ)員弁(いなべ)(がわ)左岸(さがん)取水(しゅすい)(こう)として大仲(おおなか)新田(しんでん)桑名市(くわなし))までの全長(ぜんちょう)12kmの水路(すいろ)寛永(かんえい)12(ねん)(1635)に完成(かんせい)しました。途中(とちゅう)太田(おおた)(がわ)()上川(がみがわ)など()(すい)より(たか)(かわ)をくぐらせるためにサイホン(しき)工夫(くふう)(ほどこ)され、400年前(ねんまえ)人々(ひとびと)知恵(ちえ)工夫(くふう)人々(ひとびと)(ゆた)かにしました。

六把野新井水の現況

51.(ろっ)()()新井(しんい)(すい)鳥取(とっとり)

(ろっ)()()古井(こい)(すい)長年(ながねん)通水(つうすい)老朽化(ろうきゅうか)による(みず)漏れ(もれ)(とう)解消(かいしょう)するため、大木(おおき)東員町(とういんちょう))の(ふじ)田平(たへい)()衛門(えもん)北金井(きたかない)(いなべ()員弁町(いなべちょう)員弁(いなべ)(がわ)左岸(さがん)からの水路(すいろ)宝暦(ほうれき)9(ねん)(1759)に完成(かんせい)させました。現在(げんざい)取水(しゅすい)(こう)はいなべ()大安町(だいあんちょう)三笠(みかさ)(ばし)(ひがし)にあります。

神田用水の現況

52.神田(かんだ)用水(ようすい)鳥取(とっとり)

(ろっ)()()古井(こい)(すい)(ろっ)()()新井(しんい)(すい)(みず)不足(ぶそく)解消(かいしょう)するため昭和(しょうわ)25(ねん)(1950)、県営(けんえい)灌漑(かんがい)事業(じぎょう)(だい)1(ごう)三段(さんだん)()方式(ほうしき)完成(かんせい)しました。山田(やまだ)東員町(とういんちょう)員弁(いなべ)(がわ)左岸(さがん)取水(しゅすい)(こう)として(やく)4km(きた)三百坊(さんびゃくぼう)という丘陵地(きゅうりょうち)(その高低差(こうていさ)51m)まで三箇所(みかしょ)のポンプ(じょう)により(みず)()げられました。神田(かんだ)用水(ようすい)現在(げんざい)神田(かんだ)土地(とち)改良(かいりょう)()東員町(とういんちょう)山田(やまだ))により管理(かんり)され、町内(ちょうない)多く(おおく)水田(すいでん)農業(のうぎょう)用水(ようすい)供給(きょうきゅう)しています。

文化財マップ

これらの文化財をまとめた「文化財マップ」を発行しています。

この記事に関するお問い合わせ先

東員町 社会教育課 生涯学習係
電話番号:0594-86-2816
ファックス番号:0594-86-2854
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