東員の古城

更新日:2024年03月29日

東員の古城

東員の古城 東員には戦国期、中世の古城が残ります。信長の時代に想いを馳せ、古城めぐりをしてみるのもいかがでしょうか。山田城址 大木城址 中上城址 長深城址

山田城址

 中世城館の一つで、別名「笹尾城」とも言います。中心部の規模は東西81メートル南北35メートルで「員弁雑誌」によりますと、城主の青木駿河守安豊(あおきするがのかみやすとよ)は、天正年間(1573年頃)あの織田信長に滅ぼされたと言われています。城址からは沢山の遺物が出土しました。

大木城址

 中世城館の一つで、規模は東西45メートル南北55メートルを誇り「員弁雑誌」によりますと、永禄年中(1558~1569)大木舎人(おおきとねり)が居城しましたが織田信長に降伏しその配下になったと言われています。その後天正4年(1576)に滝川一益(たきがわかずます)に不信感をもたれ大木舎人は西国に落ち延びたため廃城になったと言われています。

中上城址

 中世城館の一つで、別名「花扉城」とも言います。規模は東西160メートル南北60メートルを誇り「員弁雑誌」によりますと、明応年間(1492~1590)、坂太郎左衛門(ばんたろうざえもん)が築城したと言われます。廃城の時期は不明ですが、城主の坂家は敗戦の後、仏門に入り、蓮如上人に帰依し、中上に寺を建て、花戸山遍崇寺として現在まで続いています。

長深城址

 中世城館の一つで、善正寺の境内がそれです。規模は東西88メートル南北75メートルで現在、土塁が残り、壇もあり、本丸・二之丸も推定されます。「員弁雑誌」によりますと、暦応年間、冨永筑後守冨春が築城し、その後、冨継、冨輝、冨知と継ぎましたが、永禄11年(1568)に織田信長勢の夜討ちにより焼失したといわれています。城主の一族が、城址に冨永山善正寺を天正9年(1581)に創設し、現在まで続いています。

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